〔評〕 前段に於て、一般的に能の花を概論し、この段に於ては、花は能一番にあるばかりでなく、音曲にも舞や働にも、振や風情にも存するものであることを説いて居る。音曲の節や舞はたらき等の手は、いはば型木である。それは何人がうたひ何人が舞ふも、大体一定の型が定まつて居る。例へば序の舞の型とか、龍神のはたらきとかの如きである。又物真似の型とても大体一定したものであつて、さう無暗な動きは許されない。又これを演者個人にとつて見ても、一年前の舞や音曲と、一年後のそれとに、節や型に相違があらうとは思はれない。従つて、一定した節や型通りではさして珍らしさや面白さはなくなる。そこに、花を咲かすには如何にすべきかといふことが問題となる。即ち音曲に於ては、節以上の曲が花であり、舞に於ては手以上の品かゝりが花である。そこに着目して、上手が演ずる時に、花が咲くといふのである。曲については後に著された五音曲条々の中に、
曲をば習はぬ道あり。其故は、曲といふべきものは、まことには無きものなり。若ありと云は、それは只節なるべし。さるほどに相伝すべきかた木もなし、是は以前の下地の仕声より、節習、横竪、相音、如レ此の条々を能々究めて、達者能一の安位にすわりて、をのづから出たる用音の花匂を曲とは云也。
と述べた条がある。自然に生れる花であり匂ひであるといふのである。舞のかかりといふも同様で、上手は型通りに演じてゐても、そこに、風韻があり風趣がある。これはただ感じ得るだけで、その正体を捕捉することは出来ない。これが舞の花であるのである。捕捉し得る所はただ型だけである。
我々が現在の能を見る際にも、上手名人と評せられる人の芸を見ると、この花を実際に感じ得る。上手も下手も、その型や舞の手に変りはない。しかるに、下手の能にはうるほひがなく、味もなく匂ひも無い。上手になると、一つの動きにも一つの謡にも、何とも名状し得ない深い味がある。これは上手の芸にあらはれた花だと考へて良いであらう。