〔口訳〕 日本国に於ては、欽明天皇の御代に、大和国泊瀬川に洪水があつた際に、河上から一つの壺が流れ下つた。それを、三輪の杉の鳥居のあたりで、殿上人が拾ひ上げた。見ると中に嬰児がゐる。其の容貌誠に柔和で玉の如き児であつた。これは天降つた者だといふので、禁裏へ此由を申上げた。其の夜、天皇の御夢にこの嬰児があらはれて申上るには「私は支那の秦の始皇帝の三男(再誕――宗本)である。日本国に機縁があつて、今ここに現はれたのだ」といつた。天皇は奇異なことだと御考へになり、宮中へ御召しになられた。この児は、成人するに従つて、才智抜群で、年十五歳で大臣の位に昇つた。帝からは秦といふ姓を下された。秦といふ字は、
はたであるから、秦河勝がこれである。聖徳太子の御頃に天下に少し障りがあつた際、太子は神代や天竺に於ける吉例に従つて、六十六番の物真似をするやうに河勝に御下命になり、又六十六番の面を御自作になつて、河勝に御授けなされた。河勝はその物真似を橘の内裏の紫宸殿に於て勤めた所、天下が治まり国土安穏となつた。そこで、聖徳太子は後世の為にこれを伝へられ、元来は神楽であつたのを、神といふ字の偏を除いて、旁を残して申楽とせられた。申の字は暦の方でいふと申であるから、申楽(さるがく)と名付けられた。これは「楽を申す」といふ義でもあり、又、神楽を分けた(偏と旁とを分けた)ことにも依るのである。
河勝は欽明・敏達・用明・崇峻・推古の帝から上宮太子にまで歴仕し、この申楽の芸をば子孫に伝へ、自分は「化人跡を留めぬ」といふわけで、摂津国難波の浦からうつぼ船に乗つて風のまにまに西海へと赴いた。そして播磨国の坂越の海岸に漂着した。浦人が不審に思つて、その船をあけて見ると、普通の人間とは変つた物が居り、それがその地方の人々に憑き祟つて、様々の奇瑞を示した。そこで浦人はこれを恐れ、神として崇め祭つた所、国土が大に豊かになつた。大に荒れる神と書いて、大荒大明神と名を呼んだ。この神は現在までも霊験のあらたかな神である。この神の本地は毘沙門天王である。聖徳太子が逆臣守屋を御退治になられた時も、彼の河勝の神通力の方便にかかつて、守屋は討たれたのだといふ話である。