〔評〕 此の段の眼目は「能と工夫とを究めつくす」といふ点にある。それを実行に移す時に、妨げとなるものは諍識や慢心である。所がこの諍識や慢心の無いものは、悲しい哉万人の中に一人も無いのである。我々自身冷静に我身をふりかへつて見た時、正視するに堪へないこの種の雑念が、我々の心の底に蠢動しつつあることを感じる。これは免れ難い人間の運命だと思ふ。ただこれを跳梁せしめないで置くといふことが、許されるかと思ふ。陽明が山中の賊を破るは易いが、心中の賊を平げるは難いと歎息したといふ。陽明すら然りだ。
問題は卑近な所から出てゐる。下手な為手の長所を、上手が一向に真似ようとしないのは、どうしたわけかといふ質問である。学ぶべきものがありながら学ばないといふのは、諍識のわざである。自分の方がすぐれてゐると自惚れる慢心のわざである。諍慢の心が自分の明を蔽ふと、自分の欠点が見えなくなる。そればかりでない。「慢心あらば、我が善き所をも真実知らぬ為手となる」といふ。この一語は実に深遠である。一寸考へると、自惚れるといふことは、自己の良い所が目につきわかりすぎてゐる故に、起るかのやうに思はれる。いくら慢心しても、自分の長所を見失ふといふやうなことは無からうとも思ふ。しかし、世阿弥は「良き所を知らぬは悪き所をも善しと思ふなり」といふ。これを逆にして「悪き所をも良しと思ふは、良き所を知らぬなり」とすれば、非常に明かである。自己の欠点に目がつかぬのでなくて、欠点を欠点と自覚せず、それで良いものの如く思ふ心は、冷静に反省して見ると、良き所を知らぬ歪んだ心であるのだ。慢心の害毒はかくまでに恐るべきものである。
これから逃れて正道を進むには、ただ工夫省察の一途あるのみである。「上手は下手の手本、下手は上手の手本なり」と工夫をこらすにある。「人の悪き所を見るだにも我が手本なり、況んや善き所をや」である。この心をもつて修行したならば決して邪慢にはなり得ないと思ふ。