〔評〕 此の段では、能芸の位を論じて居るのであるが、それを、天稟自然の位と修練による位とに二大分し、それに
たけ・
かさ・
幽玄等の諸項を連関せしめて説いて居る為に、一読して一寸要領を得ることはむづかしいかと思ふ。それで私の読み得た所を次にのべて見て、読んで頂く方々の御参考にし度いと思ふ。
先づ位には、天稟的なものがあるといふ。それには幽玄の位とたけが考へられて居る。天稟的に容姿がすぐれて生れ、優美な素質を持つたものは、天稟の幽玄の位であり、生れつき品格が高くて気高い所の持主はたけ高き天稟の者である。これ等の恵まれた者は、幼少でまだ十分の稽古もつまない時代に於てすら、自然的に上位の風体を体得して居るやうに見られるのである。しかしながら、世阿弥の言に従へば、これ等は「時分の花」であり、一時的なもので、若しこれに稽古修行を加へなければ、折角のものも「いたづら事」となり終るものである。次に、修行鍛錬によつて出来上る位がある。これが順態の位である。修行の一段一段を重ね重ねて、遂に稽古の劫によつて、垢をすつかり落し切つて、そこから生じる上位こそ、真の位である。闌けたる位は、かくして到達し得られるのである。
次に、幽玄やたけの位は、「天稟のもので、努力によつては到達せられないもの」とばかりは見て居ない点に着目すべきである。「幽玄の位は別伝の所か」といひ、「所詮、位たけの上らん事は、格別の心得ありて、得ずしては大方叶ふまじ」といふ、その「別伝」「格別の心得」などの自得を説く世阿弥は、これを後に花鏡に於て、展開して居るのである。ここでは、まだそこまでは明瞭に示して居ない。ただ「稽古の劫入りて垢落ちる」といふ語で以て悟らせようとして居る。
次に稽古といふことについて面白い表現をして居る事に目がつく。「稽古とは、音曲・舞・はたらき・物真似、かやうの品々を極むる形木なり」といふ一言である。形木は型であり芸の規矩である。この規矩に従つて、音曲や舞や物真似を極めるのが稽古なのであつて、規矩は稽古にとつて不可欠のものであり、又同時に、稽古の目標であるのである。稽古に於ては、この規矩、型以外のものを求める事は邪道である。この立場に立つて、はじめて「稽古に上の位を心がけんは返々叶ふまじ。位は叶はで、剰へ稽古しける分も下るべし」といふ訓戒の真意が解し得られる。この句は、「稽古に際して、上位の芸境にならうと考へても、不可能だ云々」と解しては誤りで、「稽古に於ては、(目標は歌舞や物真似の規矩にあるので)、位などを学ばうとするのは、全く出来ない相談だ」と解すべきであると思ふ。「先づ型に入りこれを体得する、そして自然に上位に上る」、これが正道である。上位を得ようと位を模し学んで、型を疎にしては、本末顚倒となるのである。この注意は、至花道書の闌位の条に於て、更に鮮かに展開して示されてゐる。即ち、初心者が上手名人の闌けたる芸を模倣しても、自分の実力に叶はぬものだから、結局似而非なる模倣に終り、さうした結果は、自分の今まで練習した型も崩れて、遂に全く邪道に落ちることとなるといふ訓戒がそれである。
最後にたけとかさの問題を見るに、たけは天稟的なたけもあるに比べて、かさには天稟云々の問題はのべて居ない。従つて、かさは稽古修行の結果自然に生じるものかと考へられる。池内翁の考もさうであるらしい。「物々しく勢のある形」とか「堂々たる威容」とかは、どうも錬磨をつみ場数を踏んだ結果でないと出来て来ないやうに思はれる。世阿弥の時代に、かさとたけとを多くの人々が同じものの如くに考へて居たといふのは、この両者の外貌に一味似通ふ所があつたためであらうかと思はれる。尚、たけと闌けたるとは、全く別のものであるから、混同しないやうに注意が望ましい。