〔評〕 此の段は、物真似に於ける花についての細論である。
物真似の花は、先づ物真似を完成し得て、然る後に面白き所を嗜む事によつて咲くといふのがその一つである。物真似の完成といふのは、所謂「似せぬ位」である。「似せぬ位」といふのは、似せようとする努力、似せようとする意識等を通過し得た境地である。平易にいへば、扮する者そのものに真に成りきつてしまひ得た境地である。老人の物真似ならば、真の老人らしくなり切り得た境である。これは努力と鍛錬工夫でこの境地に入り得るのである。似せよう似せようと努力して居る間は、まだ真にその物に成り切れてゐない。似せようといふ意識を要しない境地に到つて、はじめて真に似せ得られたのである。その境地に達し得て、今度は面白く珍らしくと努力すれば、物真似の花が立派に咲くわけである。
その次には「老人の花はありて年よりと見ゆる口伝」について説いてゐる。物学条々に、
又、花なくば面白きことあるまじ。もし、老人のたちふるまひ、老ぬればとて、腰膝をかがめ身をつむれば、花失せて古様に見ゆるなり。さるほどに面白き所まれなり。
とのべて、老人らしく腰膝をかがめたり、身体をつづめたりしては、花がなくて、古風なものに見えるといふ。世阿弥以前には、かやうな老人の物真似であつたらしい。それでは面白さも花もないといふ。然らば老人らしく見えて、しかも花ある物真似は如何にすべきかといふ事になると、世阿弥は、老人の心理を究めて、ここに「老人の若振舞」といふものを発見したのである。それは扮装は老人でありながら、その振舞を如何にも若々しくするといふのである。若々しく振舞へば、姿態の美も音曲の美も発揮し易い。即ち古風な、老人めいた物ごし格好では、出し得ない美しさがあり得る。しかも、若々しく振舞ひながらも、老人らしい所を匂はせるのは、その動作なり舞はたらきなりを、鼓や謡の拍子に少しづつ後れるやうにする所に秘伝があるので、左様にする事によつて、心は若く逸りながらも、身体が思ふやうに動いてくれない老人といふものが、如実に示されるといふのである。私はこの老人心理を巧妙につかんだ世阿弥の見方に、実に深刻なもののあることを感じる。現在の能評家諸氏が、老女物の演出を批評される所に、往々にして、老人臭くない老女物の美しさを説き、無理に老人めかしたり声を不自然に殺したりする事の不都合を評せられる語を見るが、世阿弥の考方と規を一にする所あるを感じて、ほほゑましく思ふ。老木では美しさが無い。老木に花をさかせて、はじめて能になるのである。