〔評〕 此の段は、前段をうけて、能を作る上のコツを説いたもので、主として、音曲と
わざとの交渉関係をねらつた注意である。能の中には、音曲的効果を中心にして作られた曲もあれば、又舞台上に於ける舞や働きを見せる事を中心として作られた曲もある。一方は聴覚上の美感で見所を恍惚たらしめやうとするし、他方は、華やかな舞台面の動きで見物の心をつかまうとするものである。そして世阿弥に言はせると、かやうな一方的な効果だけをねらふ能は作り易いものであるといふ。つまり、ねらひ所が一つであるから、単純であり苦労もいらないといふ意である。
これ等に比べると、「音曲にて働く能」は中々むづかしい。それは音曲の中から働きが生れるやうに作らねばならない。つまり、音曲と舞働きが融合一如の境になつて居なければならない。見物としてはかやうな能に於て真実面白いと感心するのである。眼も楽しみ耳も楽しみ、それが同時に見物に与へられるのであるから、見物としては満足この上もないものである。
かやうな能を書くためには、詞章は人口に普く膾炙してゐる面白い文句で、それを音曲的なフシ面白く、謡ひがなめらかに流れ下るやうに作曲し、且つ一曲のヤマともいふべき所には、特殊なわざの面白さがあるやうに作るべきであるといふ。かやうな作の条件が具備せられて、はじめて見物一同が感嘆する能となるのである。
以上は一般的な顧慮であるが、世阿弥は更に細密な秘事に筆を進めてゆく。それは演能に於ける「音曲」と「働き」との相関論、本末論である。その為に先づ能の役者の演出のやり方に対する吟味が始まる。先づ、舞台上の動きや伎、換言すれば目に見える動作を中心とし、それを標準として謡ひをうたふ役者は未だ初心者の境である。それに比べて音曲を中心としつつ、その音曲の風趣から伎が生れ働きが出るやうな演じ方をする役者がある。これは所謂練達の士であると世阿弥は断定して居る。何故に、かやうな断定が生ずるか、それを考へるのが第二の吟味となる。
それは、「一切の事は、いわれを道にしてこそ、よろづの風情にはなるべき理なれ」といふのが眼目である。「謂れ」を現はすものは、謡の文句である。その文句を聞かせるのが音曲である。音曲的に美しく謂れが語られ謡はれる時、見物人はその曲の心を知るのである。その心が知れなければ、動作の示す心もわからない。従つて、音曲が能の本体をなすもので、それから動作が生れ出るのだから、「音曲は体也、風情は用なり」といふべきである。体あつての用であるから、音曲から風情はたらきが生ずるのは順であり、風情働きで以て音曲をするといふのは逆である。後の花鏡に「先づ聞かせて、次に見せよ」といふ注意がのべられてゐるが、これはこの順逆の道理を明かにしたものである。それで、演ずる者の心得としては、「謡ふ文句の意味や風趣で以て、風体や伎に風情あらしめるやうにする」といふことが第一の要件となるのである。演者の立場としては、「音曲より風情が生ずる演じ方」が眼目である。しかし、能の作者としては、そのやうな演じ方が出来るやうな能を作ることが眼目である。作者としては、文句を綴り謡曲を書くには、舞台上のシテの動作・はたらき・わざを本として、さうしたはたらきが生れるやうに文句を綴るべきであるといふのである。舞台上のはたらきを考へない曲なら、それはただ謡ひものとしてのみの価値しかなく、全く能の詞章としての価値は無い。舞台上に於て、シテの面白い働きが生れるやうに綴られた文章を謡ふならば、その音曲から自然に働きは生れて来るわけである。で、作書者としては、「風情を先立てて、しかも謡のふしかかりの面白いやうにと研究すべきである」といはなければならないのである。
この考へ方は、実に巧妙である。舞台を知らぬ作者の作つた脚本は、結局レーゼドラマに終るといふのは、此頃もやかましく言はれる処である。舞台に精通し、役者の伎や個性に合ふ脚本でなくては、成功しない。その点で、世阿弥のやうに、自分が役者と作者を兼ねた者は鬼に金棒の強さがある。
かやうにして作られた能を、実際に演ずる際には、音曲を先とし、体として、風情を音曲より生ぜしめるやうに演出する時に、はじめて「謡ふも風情、舞ふも音曲」といふ二者一如の妙境があらはれ、万曲一心たる達者になり得るといふのである。