〔評〕 此の段は、別紙口伝の中の序段ともいふべき条で、先づ
花といふものに関して、徹底的な解釈を加へた所が眼目である。
問答条々に於ては、幽かな暗示を与へたにすぎないが、それが此の段に於ては、実にあざやかに胸がすくばかりにキビキビと解明せられて居る。これだけに鮮明に解き得るものならば、
問答条々に於ても、も少し説き明しても差支ないであらうにと、感じられる読者もあられるであらう。が、そこが秘伝の秘伝たる所で、先づ悩み苦しみ工夫省察の限りを尽さしめて後に、この秘伝を伝へる所に、伝へたものが、即時に被伝受者の魂の眼を開かせる力と化するのであつて、そこに言ふに言はれぬ神秘的な悟りが生れるのである。禅の公案工夫にも似た処がある。伝へるべき時期の至るまでは秘するといふ事が、真に秘伝を生かす所以であることを考へ度い。
「花と、面白きと、珍らしきと、これ三つは同じ心なり」といふ条。「能も住する所なきを先づ花と知るべし」といふ条。これ二つが殊に眼目の所である。
芸能で人が感心させられるのは、その上手さ・うまさであり、上手さ・うまさが見物の心を打つて、ここに面白さが生じる。花の要件として面白さといふものを出したのは如何にもと首肯し得る。下手では面白さが無い。然るに世阿弥は面白さの中に、珍らしさといふ要素を加へて居る、上手の芸でも、何回も何回も連続して同じものを見せられては、見物に倦怠の心が生じるといふのも、動かすべからざる真理である。そこで見物の心理を見通して、彼等が要求しさうなものを、先手を打つて提供し、演伎に変化あらしめて、珍らしさの感をかち得るとなれば、その上手の芸は常に百パーセントの芸術的効果をあげ得る。花は、いはゞ、百パーセントに発揮せられた芸術的効果であるとも言ひ得る。「猿楽も人の心に珍らしきと知る所、即ち面白きなり」と世阿弥はのべてゐて、上手さ・うまさといふ事には言及してゐないが、「物数をつくし工夫を得て、珍らしき感を心得るが花なり」といふ中に、これが含まれてゐると私は考へる。いくら珍らしくても、下手ではてんで問題にならないからである。
「能も住する所なきを先づ花と心得べし」といふのも、珍らしさの感を常に保ち得んが為である。元来「住する」といふ語は、金剛経に、「応無所住而生其心」といふ有名な文句もあつて、仏教上での用語である。一所に停滞して押し移る事を知らぬのを「住する」といふ。芭蕉の語でいへば、流行を知らぬものであり、近代的な表現を借りれば、発展性を失つた凝固状態をいふ。世阿弥はそれを軽く用ひて、常に変化ある珍らしさを持つことを、住する所なしとのべたのである。
次に珍らしきといふ条件に対して、一つの警戒の辞をあたへてゐる。それは、「珍らしきと言へばとて、世になき風体を為出すにてはあるべからず」である。新奇なものをせよといふのでは無くて、「花伝に出す所の条々を悉く稽古し終りて、さて猿楽をせん時に、その物数を、用々に従ひて取出」して演ずる事であるといふ戒である。「万づの草木に於て、何れか四季折節の時の花の外に、珍しき花のあるべき」などといふ比喩は、実に生きて使はれてゐるのを感じる。
第三に、花の基礎的な要件として、物数を究めつくすといふ条が示されてゐる点を注意し度い。即ち如何なる能をも完全に演じ得るまでの鍛錬修行をつむことが大切だといふのである。時と所と人とによつて、ここでは如何なる能を演ずべきかを見分けるのが「花は心」の心であるが、いかに心が働いても、適切な曲を即座に演じ得るだけの平素の用意たしなみを欠いては、全く何にもならない。泥棒を見つけてから縄をなつては遅いのである。
最後に、鬼の面白さを説き、「巌に花の咲かんが如し」といふ条を説明した所など、如何にも手に入つたもので、ただ成程と感心させられるばかりである。