風姿花伝第四、神儀云
 申楽神代の初まり
 仏在所には
 日本国に於ては
 平の都にしては
 当代に於て

風姿花伝第五、奥儀云
 一 序・風姿花伝の謂れ
 二 和州・江州・田楽の風体
 三 一座建立の寿福・衆人の愛敬
 四 寿福増長に対する戒

風姿花伝第六、花修云
 一 能の本を書く事
 二 作者の思ひ分くべき事
 三 強き・幽玄・弱き・荒きの別
 四 能と為手の位との相応

花伝書別紙口伝
 一 花を知る事 📍
 二 細かなる口伝
 三 物真似に似せぬ位
 四 能に十体を得べき事
 五 能によろづ用心を持つべき事
 六 秘する花を知る事
 七 因果の花を知る事
 八 能の善き悪き
 九 一代一人の相伝

 

 

 

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花伝書別紙口伝 一 花を知る事

此の口伝に、花を知ること、先づ、仮令、花の咲くを見て、万に花と喩え始めし理を弁うべし。

抑花と云ふに、万木千草に於いて、四季折節に咲くものなれば、其の時を得て珍しき故に、玩ぶなり。猿楽も、人の心に珍しきと知る所、即ち、面白き心なり。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは同じ心なり。何れの花か散らで残るべき。散る故に依りて、咲く頃あれば珍しきなり。能も住する所無きを、先づ花と知るべし。住せずして余の風体に移れば珍しきなり。

但し、様あり。珍しきと云えばとて、世に無き風体を為出すにてはあるべからず。花伝に出す所の条々を、悉く稽古し終わりて、さて、猿楽を為ん時に、其の物数を、用々に従いて取り出すべし。

花と申すも、万の草木に於いて、何れか四季折節の、時の花の外に、珍しき花の有るべき。その如くに、習い覚えつる品々を究めぬれば、時折節の当世を心得て、時の人の好みの品に因りて、其の風体を取り出す、是時の花の咲くを見んが如し。花と申すも、去年咲きし種なり、能も元見し風体なれども、物数を究めぬれば、其の数を尽くす程久し。ひさしくて見れば又珍しきなり。

其の上、人の好みも色々にして、音曲、振る舞い、物真似、所々に変わりて、とり〴〵なれば、何れの風体をも、残しては叶ふまじきなり。然れば、物数を究め尽くしたらん為手は、初春の梅より、秋の菊の花の咲き果つる迄、一年中の花の種を持ちたらんが如し。何れの花なりとも、人の望み、時に因りて取り出すべし。物数を究めずば、時に依りて花を失う事あるべし。仮令ば、春の花の頃過ぎて、夏草の花を賞玩せんずる時分に、春の花の風体ばかりを得たらん為手が、夏草の花は無くて、過ぎし春の花を又持ちて出でたらんは、時の花に合ふべしや。是にて知るべし。只、花は、見る人の心に、珍しきが花なり。然れば、花伝の花の段に、「物数を究めて、工夫を尽くして後、花の失せぬ所をば知るべし」とあるは、此の口伝也。されば、花とて別には、無きものなり。物数を尽くして、工夫を得て、珍しき感を心得るが花なり。「花は心、種は態」と書けるも是なり。

物真似の鬼の段に、「鬼ばかりを善く為ん者は、鬼の面白き所をも知るまじき」とも申したる也。物数を尽くして、又珍しく為出したらんは、珍しき所、花なるべき程に、面白かるべし。余の風体は無くて、鬼斗を為る、上手と思はば、善く為たりとは見ゆるとも、珍しき心、有るまじければ、見所に花は有るべからず。「巌に花の咲かんが如し」と、申したるも、鬼をば、強く、恐ろしく、肝を消す様に為るならでは、凡その風体無し。是巌なり。花と云ふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の、思い馴れたる所に、思いの外に鬼をすれば、珍しく見ゆる所、是花なり。然れば、鬼斗を為んずる為手は、巌斗にて、花は有るべからず。

 

〔口訳〕 此の口伝に於て、能楽のを知ることに就ては、先づ、自然の花の咲くのを見て、それによつて、万事に於て、を以て喩へ始めた所以を理解するがよい。

 一体、といふものは、万木千草に於て、四季折節に咲くものであるから、その咲くべき時を得て咲き、珍らしく感ずる故に、人々がこれを賞翫するのである。能楽に於ても、見物人が珍らしいと感じる所が即ち面白い感なのである、従つて、と、この三つは同じ感であるのだ。如何なる花でも、いつまでも散らないで、残るものは無い。散るからこそ、咲く時節になつて咲くのが珍らしいのだ。能も、一つの風体ばかりを演じないのが花だと先づ心得るが良い。一つの風ばかり演じないで、他の風体に移るやうにすれば、珍しさがあるわけである。

 但しここに注意すべき仔細がある。いくら珍しさが良いといつても、世に行はれてゐないやうな風体を為出すといふのではない。花伝書に示した所の条々について、これを悉く稽古しつくして、さて能を演ずる場合に、その習得した様々の曲を、適材適所に取り出して演ずべきである。

 花といつても、万木千草に於て、四季折節に咲く花以外に、何の珍らしい花があり得ようぞ。それと同様に、能に於ても、習ひ覚えた能の各体を究めたならば、その時々の人々の好尚によつて、それに向くやうな風体の能を選んで演ずる、これ丁度、四季時々の花の咲くのを見ると同じである。花といふのも去年咲いた花と変りはない。能も、曽て見た風体の能ではあるが、各様の曲に通じた演者は、その様々な曲を一通り演じる間に、相当の年月が経つものだ。従つて、同一の風体の能も、久しぶりで見る時には、又珍らしく感じるものである。

 以上述べた上に、人の嗜好といふものは千差万別で、音曲・ふるまひ・物真似等の好みに於ても、所所で変つて様々なものがあるから、何れの風体をも悉く演じ得るやうでなくては不十分である。それで、物数を究め尽した役者は、丁度初春の梅花から秋の菊花の咲き果てるまでの、一年中の花の種を持つてゐるのと同様で、如何やうな花でも、人の望みに応じ、時と場合に応じて、それぞれ適当なものを取出すことが出来る。物数を十分に究めて居ないと、時によつては人々の望みのものを出し得ないで、花を失ふことがある。例へば、春の花の時節が過ぎて、人々が夏草の花を賞翫しようとする時分に、春の花の風体ばかりが得意な役者が、夏草の花を持たず、過ぎた春の花をまた持ち出したとしたら、それは到底時の花に合ふ筈はない。以上のたとへで知るが良い、ただ花といふのは、見物人の心に珍らしく感じるのが花であるのだ。花伝書の花の段に、「物数を究め、工夫を尽して、然る後に花の失せぬ所を知るべし」といつてあるのは、この口伝であるのだ。それで、花といつて何も特別なものがあるのではない。物数を尽し、工夫を究めて、珍らしさといふ感を心得るのが花である。「花は心、種はわざ」と書いてあるのも、この事であるのだ。

 物学条々の鬼の段に於て、「鬼ばかりをよくせん者は、鬼の面白き所をも知るまじき」とも述べたのは、役者が様々の曲に亙つて、所謂物数を尽して後、鬼を珍らしく演出したならば、その珍らしい所が花となるであらうから、面白いであらう。しかし、他の風体をやらず、鬼ばかりを演ずる上手だと見物が心得てゐたならば、たとひ鬼は上手に演じたとしても、そこに珍らしさといふ感じは起るまいと思はれるから、その演出にといふものはあらう筈がない。「巌に花の咲かんが如し」と述べたのも、鬼を演じては、強く恐ろしく、見物が肝を消すといふ風に演じなくては、凡そ鬼の風体なるものは無い。これ即ち巌にも比すべきものである。所が、といふのは、あらゆる風体を演じて、見物が優雅至極の上手だと思ひ馴れて居る所へ、思の外に、鬼のやうなものを演ずると、非常に珍らしく見物が感じる。これがなのである。だから、鬼ばかり演ずる役者は、言はば巌ばかりで、花はないわけである。

 

〔評〕 此の段は、別紙口伝の中の序段ともいふべき条で、先づといふものに関して、徹底的な解釈を加へた所が眼目である。問答条々に於ては、幽かな暗示を与へたにすぎないが、それが此の段に於ては、実にあざやかに胸がすくばかりにキビキビと解明せられて居る。これだけに鮮明に解き得るものならば、問答条々に於ても、も少し説き明しても差支ないであらうにと、感じられる読者もあられるであらう。が、そこが秘伝の秘伝たる所で、先づ悩み苦しみ工夫省察の限りを尽さしめて後に、この秘伝を伝へる所に、伝へたものが、即時に被伝受者の魂の眼を開かせる力と化するのであつて、そこに言ふに言はれぬ神秘的な悟りが生れるのである。禅の公案工夫にも似た処がある。伝へるべき時期の至るまでは秘するといふ事が、真に秘伝を生かす所以であることを考へ度い。

 「花と、面白きと、珍らしきと、これ三つは同じ心なり」といふ条。「能も住する所なきを先づ花と知るべし」といふ条。これ二つが殊に眼目の所である。

 芸能で人が感心させられるのは、その上手さ・うまさであり、上手さ・うまさが見物の心を打つて、ここに面白さが生じる。花の要件として面白さといふものを出したのは如何にもと首肯し得る。下手では面白さが無い。然るに世阿弥は面白さの中に、珍らしさといふ要素を加へて居る、上手の芸でも、何回も何回も連続して同じものを見せられては、見物に倦怠の心が生じるといふのも、動かすべからざる真理である。そこで見物の心理を見通して、彼等が要求しさうなものを、先手を打つて提供し、演伎に変化あらしめて、珍らしさの感をかち得るとなれば、その上手の芸は常に百パーセントの芸術的効果をあげ得る。花は、いはゞ、百パーセントに発揮せられた芸術的効果であるとも言ひ得る。「猿楽も人の心に珍らしきと知る所、即ち面白きなり」と世阿弥はのべてゐて、上手さ・うまさといふ事には言及してゐないが、「物数をつくし工夫を得て、珍らしき感を心得るが花なり」といふ中に、これが含まれてゐると私は考へる。いくら珍らしくても、下手ではてんで問題にならないからである。

 「能も住する所なきを先づ花と心得べし」といふのも、珍らしさの感を常に保ち得んが為である。元来「住する」といふ語は、金剛経に、「応無所住而生其心」といふ有名な文句もあつて、仏教上での用語である。一所に停滞して押し移る事を知らぬのを「住する」といふ。芭蕉の語でいへば、流行を知らぬものであり、近代的な表現を借りれば、発展性を失つた凝固状態をいふ。世阿弥はそれを軽く用ひて、常に変化ある珍らしさを持つことを、住する所なしとのべたのである。

 次に珍らしきといふ条件に対して、一つの警戒の辞をあたへてゐる。それは、「珍らしきと言へばとて、世になき風体を為出すにてはあるべからず」である。新奇なものをせよといふのでは無くて、「花伝に出す所の条々を悉く稽古し終りて、さて猿楽をせん時に、その物数を、用々に従ひて取出」して演ずる事であるといふ戒である。「万づの草木に於て、何れか四季折節の時の花の外に、珍しき花のあるべき」などといふ比喩は、実に生きて使はれてゐるのを感じる。

 第三に、花の基礎的な要件として、物数を究めつくすといふ条が示されてゐる点を注意し度い。即ち如何なる能をも完全に演じ得るまでの鍛錬修行をつむことが大切だといふのである。時と所と人とによつて、ここでは如何なる能を演ずべきかを見分けるのが「花は」のであるが、いかに心が働いても、適切な曲を即座に演じ得るだけの平素の用意たしなみを欠いては、全く何にもならない。泥棒を見つけてから縄をなつては遅いのである。

 最後に、鬼の面白さを説き、「巌に花の咲かんが如し」といふ条を説明した所など、如何にも手に入つたもので、ただ成程と感心させられるばかりである。

 

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