〔評〕 この段は、秘事といふものの性質・効用等を説いて余す所がない。我国の諸道芸に於て、秘事や秘伝について記したものは相当に夥しいが、秘事の意義をかくまで正確明瞭に道破したものは、私はまだ見た事がない。それほどに、此の段は立派な意見である。
秘伝や秘事は、知つて見れば、何でもないものである。その点も世阿弥は明かに認識してゐて、「秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり」と断言して居る。しかし、その故に、「秘事などはつまらないものだ」といふのは、所謂一を知つて二を知らざる者である。即ち、世阿弥をしていはしむれば、かかる者は、秘事の偉大な効用といふものを認識し得ない浅見者流に過ぎない。秘事は秘することによつてのみその効力を発揮するものであるからである。
何が故に秘する事が大用を生ずるのか。世阿弥は戦場に於ける武将の神謀奇策を以てこれを例証してゐる。敵を打つには謀の密なることを要する。こちらの謀事が敵に知られるならば、敵はこれに対応する処置に出でるからである。敵の不意を打ち敵の油断を突く所に、勝利の秘策がある。敗れた者が、戦争の終つた後に、敵の謀事を考へれば、大したものでなかつた事はわかるであらうが、それを予知しなかつた所に、敗因がある。この敵をして予知だもさせないでその不意をつくのは、全く「秘する」といふ事がその効を奏したものでなくて何であらう。
能の花に於ても同様である。「花は珍しさである」といふのが秘事である。だが、見物にこれを知られては、見物が何か珍しさのある事を予想する。予想した者の前では、たとへ如何に珍らしく演じても、見る者は「意外な」といふおどろきを感じない。従つて「珍らしさ」が珍らしくなくなり、花は咲かない。所が、見物が、花とも珍らしいとも何とも知らないで、ただその面白さばかりに気をとられて、「珍しさが花だ」と気づかぬ所では、真に能の花が咲く。「人の心に思ひもよらぬ感を催す手立」が花である。「思ひもよらぬ」ことは、秘することによつて生れる大なる効力である。
更に世阿弥は進んで、秘事を知らせぬだけでは未だ不十分であるといひ、秘事を持つ人間であるといふ事さへも、他人に知られてはならないと説く。実に用意周到の言である。敵人をして、名将であり謀士であると思はせるものは、未だ真の名将謀士ではない。如何となれば、それでは敵が油断をしないからである。真の名将謀士は敵に油断させ得る士でなくてはならない。能に於ても同様である。見物を油断させる人間でなくては、真の花を体得した者とはいへない。「思の外なる感を催させる」とは、結局、相手に油断させて、その虚を衝く所からのみ生れるからである。