〔口訳〕 能を演ずる際に、如何なる曲が善いか又は悪いかといふ事を定める場合に、その演者の芸の位に相応するといふ事を考へなければならない。能の中には、大やうな能で、別に文字文章の美しさや風体の幽玄などといふ事を求めて作つた曲でなく、正しい典拠によつて作られ、非常に曲の位の上つた能があるものだ。かやうな能は、見物の目にうつる処は、さほど細かな面白味の無いことがある。かやうな能になると、相当に上手といはれてゐる為手が演じても、うまく似合はない事がある。又、たとひこの位の上つた曲に相応する程の無上の上手が演じても、鑑識眼の高い見物の前や、晴れの檜舞台といふべきやうな大所で演ずるのでなくては、その能がうまく成功を収めるといふことはあり得ない。即ち、能といふものは、その曲の位・演者の芸位・観賞者・その演能の場所・演能の時分、これ等が悉く相応し合致しなくては、容易に成功するものではないのである。
又能の中には、小さい能で、さして立派な典拠によつたものでもないが、幽玄なもので、細々とした能がある。かやうな能は、初心の為手にも似合ふものである。演ずる場所も、従つて、片田舎などの神事猿楽や夜能などにふさはしい。相当な批評者も、又相当な為手も、かやうな能にだまされ易いもので、田舎や又小さい場所の演能で面白いと感ずると、それと同じやうな積りになつて、堂々とした大舞台や、貴人の御前の能などで、これを贔負興行して見たりするが、その能が思の外に不出来だとなると、役者にも汚名をつけ、自分も面目を失ふといふやうな事があるものである。
かやうな次第だから、かやうな曲の種類の限定もうけず、如何なる曲を演じても、又その場所が如何やうな舞台で演じても、一様に甲乙なく上手な演出を見せる為手でなければ、無上の花を究めた上手と称することは出来ない。従つて、如何なる場所舞台に於ても、それに相応して演じ得るほどの上手となると、もはや是とか非とかの論義はなくなるものである。
又、為手によつては、其の伎の上手であるほどには、能といふものを知らぬ為手もあり、又これと反対に、その伎の程度以上に、能といふものを知つてゐる為手もある。貴人の御前や堂々たる晴れの舞台での演能に於て、伎は上手でありながら、能を為違へてちゝのあるのは、これはその為手が能を知らないためである。又それほどに伎も上手でなく、又やり得る能数も少ししか持つて居ないやうな為手――いはば初心ともいふべき為手――が、堂々たる舞台に於ても花を咲かせ、諸人の褒美が弥益しに加はり、又さのみにその芸の出来ばえに甲乙なく、いつも相当に成功を収めるといふのは、その伎よりは、能を知つて居るためであらう。それで、世人の評も、かやうな両様の為手を、とりどりに、或は前者がまさるといひ後者がまさるなどと、批評するものである。しかし、貴人の御前や晴れの舞台で、普ねく能が良く出来るといふ者は、其の名望も長くつづくであらう。さうなるといふと、上手がその芸の達者な程には能を知らない者よりも、少々伎の方では不足を感じる為手でも、能を知つてゐる為手の方が、一座建立の棟梁としては、すぐれてゐると申すべきであらう。
能を知つてゐる為手は、自分の伎倆の不足な点についても自覚してゐるから、大事な能に於ては、自分の力に叶はぬ事は斟酌して控へ、自分の得意とする風体の能ばかりを先立てて演ずる、そしてその能の仕立てが立派であれば、必ず見物の賞讃を得るであらう。而して、自分の不得手な所をば、小所の能や片田舎の能などの際に仕習ふやうにするであらう。かやうにして稽古を積めば、不得手な所も、稽古の劫をつむにつれて、自然に出来得るやうになるであらう。それで、遂には、能に嵩も出来て来、欠点も脱け落ちて、いよいよ名望も上り一座も繁昌するやうになれば、定めて老齢になるまでも花は残るであらう。これ即ち、初心の時代から能を知つてゐた故である。この能を知る心でもつて、工夫公案をつくして見れば、必ず花を咲かすもとを知るに至るであらう。しかし、この両様(上手な割に能を知らぬものと、初心より能を知るものと)の何れが良いかは、人々の心々にそれぞれに考があるであらうから、めいめいに批判し勝負を定めて見るが良からう。