〔評〕 此の段の中心は、立合勝負に勝つ手段を説くのが眼目であり、「能数を持ちて敵人の能に変りたる風体を違へて為べし」、「敵方色めきたる能をすれば、しづやに模様かはりて、つめ所のある能をすべし。かやうに敵人の申楽にかへてすれば、如何に敵方の申楽善けれども、さのみに負くる事なし。若し能よくいでくれば、勝つ事は治定なるべし」といふ条が、その中心である。その手段として、能を作る事の必要が説かれ、最後に「曲柄の善悪が演出価値に及ぼす影響」について説かれてゐるのである。
敵人の能と模様風体の変つた能を演ぜよといふ教訓は誠に面白い。同じ風体の能であれば、よほど後の演者がすぐれてゐなくては、勝目が前者に多いことは、心理学的に考へても明瞭である。見物の倦怠の感じ、先入主となる心理、これだけを考へても、後の者が損をする事は明白である。模様が変れば、倦怠や先入主が安全に封じられ、又一面に、異趣のものであるから、見物人の批判が容易でない。そこに、少くとも、「負けない」だけの用意が出来てゐる。よく考へたものだと思ふ。能を作ることは、第一に自ら能を豊富に持つ結果となる。自分の演じ得る能が多くなければ、臨機応変に敵方の能と模様の変つたものを演ずることに支障が生じる。大きな店舗が各種の商品を豊富に具へて、如何なる客にも向くやうに準備するのと同一の理由である。第二の理由は、自作自演と、他人の作を演ずるのとの相異である。「自作ならば、言葉ふるまひ案の内なり」であるが、他人の作はさうは行かぬ。他人は、自分がやるために作るので、他の者がやるのに好都合には作つてゐないからである。
「手柄の精糲立合に見ゆべし」といふ手柄といふ語の中には、演伎も勿論入つて居るはゐるが、他人の能と趣の変つたものを演ずるとか、又能を作るなどといふ、心のはたらきをもこの中に含めて考へるが良いと思ふ。それでないと、この語が生きない。
最後の申楽の当座に於て、演能に上中下があるといふ評論は、結局、良き能(曲)を持つ事が、最大の演伎価値を発揮する為には、大切な要件である事を物語つたものと考へられる。演者は同様に苦心して上手に演じても、その能が、さほど名曲でないものは第二位になり、能柄が悪ければ第三位におちるからである。これも立合勝負に於て敵人の能に勝つためには、是非心得てゐなくてはならない。その為には、本説の正しい且つ珍らしいものを以て、幽玄に且つ面白いやうに能作する事が必要となつて来る。従つて自ら能を作る力量があることが、立合勝負に勝を制する重大な役目をつとめる事も明白である。