〔評〕 この
花伝書第三問答条々は、
花を説く事が眼目である。その花の最後に、しほれたる風情を加へて、「花よりもなほ上のことにも申しつべし」といつて居る所を見ると、この条を書いた世阿弥には、ただ幽玄な花だけでは満足しきれないで、その花にやや萎れを持つた風情の特殊な魅力をも、心がけて居た事がうかがはれる。花から萎れへの線を、遥かに延長する時、我々は花鏡にのべられて居る「さび」や「ひえたる」ものの存在を、そこに感じるのである。妖艶から幽艶へ、それから淡々たる美しさへ、更に進んで寂びにまで進むのは、東洋芸術の一特色である。
世阿弥は萎れの基体を花に置いてゐる。「花がなくては萎れでない、それはしめりたるものに過ぎない」といふ一語は、実に周到な注意で、千鈞の重味がある。若し稽古や振舞で萎れを求める者があるならば、それこそしめりを得るだけにならう。ここが芸能のむづかしい所であり、又味のある所である。位が進めばおのづから自得せられるが、その位に到らないものには、求めては怪我を招くのみである。
萎れは口では説明し難い。ただ直感するだけである。海棠の雨を帯びた風情だとか、李花一枝雨を帯ぶとか、良き女のなやめる所あるに似たりとか、さまざまこれを譬へるべきものがある。が、美人がなやめる所あつてこそ美しいが、美人ならぬ者が西施の顰にならつても、それは結局うたて興ざめたるものに終る。で結局、花が何としても大切だといふ所に落ちつくわけである。