〔評〕 怨霊憑物などの鬼が、面白き便りがあるから、容易であるといふことは、前の
物狂ひの憑物の条を参照すれば、極めて明白になるであらう。又その面白さの手だては、その次に「あひしらひを目がけて云々」といふ語があつて、具体的にも説かれて居る。
問題は、怖ろしい鬼を面白く思はせる公案である。これに関しては、
- 鬼の面白い所のあるシテは、究めたる上手といふべきである。
- 鬼ばかりを上手にするシテは、花を知らぬシテといふべきである。
- 若きシテの鬼は、上手に演じても、面白からぬ道理がある。
- 鬼ばかりが上手なシテは、鬼も面白くない道理がある。
といふ四つの暗示的な表現だけで、最後の説明はわざと略してある。そしてそれは公案として残され、解決は、別紙口伝に於て与へられてゐる。曰く、
鬼ばかりを善くせん者は、鬼の面白き所をも知るまじきと申したるも、物数をつくして、鬼を珍らしくし出したらんは、珍らしき所花なるべきほどに、面白かるべし。余の風体はなくて、鬼ばかりするを上手と思はば、善くしたりとは見ゆるとも、珍らしき心あるまじければ、見所に花はあるべからず。「巌に花の咲かんが如し」と申したるも、鬼をば、強く怖しく肝を消すやうにするならでは、凡その風体なし。これ巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の思ひ慣れたる所に、思の外に鬼をすれば、珍らしく見ゆるところ、これ花なり。然れば、鬼ばかりをせんずるシテは、巌ばかりにて、花はあるべからず。
結局、鬼の花は、珍らしさにあるといふのである。説きつくし得て余蘊なしといふべきである。鬼ばかりを上手にするシテに花がなく、鬼も面白くないのは、結局それが度々やられる為に、見物に珍しき感がないによる。又年若きシテの鬼に面白味のないのも、これはまだ「余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の思ひなれ」てゐない故である。鬼を面白く演じ得るシテは、究めたる上手であるといふのは、その人が、すべての風体を残さずして、幽玄至極のシテと見物に思はれて居るに依るのである。
この鬼の物真似は、後年の二曲三体絵図には、更に二つに分けられて、砕動風鬼と力動風鬼の二つとせられ、砕動風までを学ぶべく、力動風は稀にのみ演ずべきことを力説してゐる。この二分説と、憑物の鬼と冥途の鬼との二分説とを、比較して見れば、更に面白いであらうと思ふ。