〔口訳〕 秘義に「一体芸能といふものは、諸人の心を和らげて、上下貴賤の者に感動をあたへることにあり、寿福を増長し遐齢延年の効を生ずる法といふ事が出来る。勿論、如何なる道に於ても、その道を究極まで究め尽すならば、それ等は悉く寿福増長のものとなるであらう」と述べられて居る。
殊にこの能楽に於て、最上の芸位を極め、佳名を後世にまで残すといふ事は、天下の諸人に名人として許される事であり、天下に認められるといふことは又同時に、寿福増長であるわけである。しかし乍ら、ここに大切な故実工夫がある。芸の品格や位に於て究極まで達し得た為手が、上根上智ともいふべきすぐれた眼識者に認められるといふことは、芸と眼識とが、非常にうまく相応して居るのだから、演者の真価が十分に認められることは、勿論の事といひ得る。所が、大体より言つて、愚な輩や遠国田舎の賤しい見物の眼には、この芸の品格高く位を究めた風体といふものは、とても認知し得られないものである。かうした場合に、演者は如何にすべきものであらうか。
此の(猿楽の)芸に於ては、衆人の愛敬を得る事を以て、その一座を立ててゆく上の寿福として居るのである。それで、一般見物人の眼に及ばないやうな、あまりに高級な風体ばかりを演じては、一般諸人の褒美を得る事が出来ない。その為に、初心以来の年々去来の花を十分に身に持つて、時に応じ所に応じて、能を知らぬ者の眼にも、実にも面白いものよと感じるやうに能をする事が大切で、これ即ち寿福の基である。よくよくかやうな世態心理を考へて見ると、貴人の御前の能、宮寺の能から、遠国田舎の神社祭礼の猿楽に到るまで、何処で演じても、普く褒美せられるやうな為手を、寿福達人の為手と言ふべきであらう。従つて、如何に上手な為手でも、衆人の愛敬に於て闕けた所があつたならば、その人は寿福増長の為手とは称し難い。かやうなわけであるから、亡父観阿は、どんな田舎や山里の片ほとりでの演能でも、其処の見物の気持を受け、其の所の風儀に最大の関心を払つて、芸をしたものであつた。
かやうに言ふと、初心の為手には、そんな程度にまで究めるといふことは、自分等には到底出来ない事だと思つて、精進努力の気持を挫折してしまふ事があるかもしれないと思ふが、決して挫折退転してはならない。今述べた条々をよく心の中に納め、その道理を少しづつ採用し、いろいろ考案して、自分の力量相応な程度に工夫をこらして演出すべきである。
今まで述べて来た条々(奥儀篇の)の工夫は、初心の為手よりも、尚一段上位に立つ上手な為手に於いて必要な故実であり工夫である。世上には、たまたま上手といはれる芸位にまで進んだ為手でありながら、我が芸力を憑み、世上の名望に眩惑して、前に述べた故実工夫を闕き、その為に、徒らに名望の高いのに比して、寿福の乏しい為手が多いといふ状態であるから、誠に歎かはしく思ふ次第である。芸に於て得法した所があつても、この故実工夫が欠けてゐては全く駄目である。芸もすばらしく、その上に故実工夫を持つならば、恰も花に種を添へた如く、これこそ理想的といひ得る。
又、たとひ天下万人に上手名人と許される程の者でも、人為の力では如何ともし難い盛衰因果の理法のために、万一その者の人気が落ちる時機に際会しても、田舎や遠国地方に於ける人々の賞玩を失ふことがなければ、その芸道がそのまま断絶してしまふといふ事は先づ有り得ない。断絶してしまふ事さへなければ、又再び時機が廻つて来て、天下衆人に賞玩せられる事があるであらう。