〔評〕 此の段は、因果の花を知る事について説く。
冒頭に、「因果の花を知ること、きわめなるべし。一さい皆因果なり」といふ。きわめとは究極の意である。花伝書全体に亙つて説いて来たことの、その究極は、この「因果の花を知る」といふことに尽きるといふのである。初心よりの芸能の数々の修練は因であり、能を究めて世上に名望を博する事が果である。その稽古鍛錬といふ因がおろそかであれば、到底名望を得るといふ結果は望まれない。結局、生涯を習ひ徹る稽古工夫をつまなくては、能の名手とはなり得られないことをのべたものであつて、実に秘伝としては平凡であるが、その平凡なる真理を実行する事が、ややもすれば忘れられる所に、これを究極の秘事として説く理由が存するのである。
以上の平凡なる大真理は、従来の諸々の秘伝の要としてあげたのであるが、尚、ここに特殊の因果の花を一つ説く。これ、即ち、「時分を恐れる」といふ一条である。「時分を恐れる」といふ事は、天運の利なる時と、非なる時とが、必ず循環的にめぐつて来るものであることを知つて、天運の非なる際に十分の用心をする事をいふ。「去年さかり有らば、今年は花なかるべき事を知るべし」と世阿弥は述べて居る。一栄あれば一落あるのが世の道理である。これは、人力の如何ともする事の出来ぬ理法である。
これに対する心掛けとしては、最も大切なる時期に、天運が自分に有利に廻つて来るやうに、計らひをめぐらす事を世阿弥は告げてゐる。即ち最も大切な時期と思はれる時の為に、その前の演能を、手を省いて控へ目に控へ目にと演じて、暫く勝を敵方にゆづつて置くのである。常々見物人に、上手名人と認められて居る役者が、かやうな花々しからぬ演出をする時には、見物は事の意外に暫くはおどろくであらうし、或は非難をあびせるでもあらうが、それを忍んで、満を持して、最も大切な時の到るを待つのである。そして、その時期が到つた時には、最も得意の能を最も華々しく演じる。かくすれば、その芸は、前のそれと比較して実にすばらしく感ぜられるに比して、敵方は、如何に努力しても、その前に勝つた際とあまりすぐれては見えず、むしろ前に面白く感じた印象のために、当日の芸が見劣りがせられるといふ悪いコンディションに立つために、こちらが勝負に勝を制する事は誠に容易であるといふのである。
かやうな演じ方をして、天運の利なる時に乗ずるといふ行き方は、数日間連続の演能――例へば勧進能の如き――の際に於ては、その最も重要な一日を自己に有利に導くといふ方法となつてあらはれ、同じ一日の演能の際に於ては、最も大切な一番を自己に有利に導くといふ風になつてあらはれる。
又、一日の立合勝負に於ては、女時と男時とを良く見分ける事が、「時分を恐れて、因果の花を知る事」に大切となる。自己が女時に廻る際は相手が男時になる時である。自己が女時であれば、如何に骨折つても、その効果は発揮しがたい。かやうな際に手を省き貯へて、おもむろに自己に男時のめぐり来るのを待ち、自己に男時のめぐり来た際に、十分に努力し精励すれば、必ず演出効果は完全に収め得る。これ即ち「時分を恐れて因果の花を知る」の大用である。
この立合勝負に於ける男時女時の循環を、勝負神といふ信仰を以て考へて居る考へ方は誠に興味がある。現代人は、かうした信仰を、ややもすると迷信として斥けてしまはうとするが、私はさうした考には賛成し難い。天運の循環といふも、やはり一の信仰である。それを、勝つ神・負くる神の二神が勝負の場をめぐつて、それぞれを支配するものであると考へる時、人には恐れと慎みの情が起る。恐れと慎みは、人間を謙虚ならしめるが、これを失つた人間は、必ず増上慢となる。さうなつては、全く芸能家としての資格はない。従つて、一栄一落は自然の理法であると知的に認識するよりも、これを神格化して、或は天運の循環と見、又は勝負神の司る所と考へて、誠心誠意これを畏れつつしむといふ方が、人間としても、芸能家としても、最も望ましい所である。「信あれば徳あり」は、功利的な考のやうに見えるが、私には更に深い真理があるやうに思はれてならない。