〔評〕 この段は、物真似の中の微細な物真似――女・老・軍体等の大きな姿風情の物真似に対して――即ち、謡の文句にあらはれた所の意味なり風趣なりを、その謡に合せて、為活かす物真似についてのべたものである。今日能の方で型又は形といはれて居る方面の芸について言つたものである。そして、これが所謂能を生かすか殺すかの分れ目となる大切な所である事は、能を見る人も、演ずる人も、十分に御承知のことと思ふ。これについての要件は「言ひごとの文字にまかせて、心を遣べし」といふ点を眼目とする。身体を動かし、手足を動かすのであるから、「言ひごとの文字にまかせて、身をつかふべし」と言つても良ささうに思はれるが、「心をつかふべし」といつた所を注意すべきであらう。身や手足のはたらきは末で、その根元は心にあるといふ事を明瞭に示して居る。物を聞くに、耳で聞く聞きかたと、心で聞く聞き方との間に、我々はその芸の生死の分れ目を感じはしないであらうか。心が自然に身体の動きににじみ出るのと、心がお留守で身体だけが動くのとは、大分と感じがちがふやうである。かやうに考へる私は、宗節本の本文より、吉田本の本文の方が、深味があるやうに思ふ。かく心をつかふことが、「おのづからに、振にも風情にもなるなり」といふのは、味はふべき所であらう。
次の「節とかかりによりて身の振舞を料簡すべし」といふ条も、頗る大切なことだと思ふ。謡の節や情調の美しい流れが、そのままに身体の動きに合して、急速な謡には速かに、やさしい謡にはやさしく、荘重な謡には荘重に、それぞれ音曲の情調が、身の動かしかたに具現せられ、それ等が音曲の微細な序破急の変化にぴたりと乗つて演ぜられる時、我々は、音楽のもつ旋律美を、役者の動く絵画美の中に、時間的曲線美として感じるのである。ここに於て、我々は芸への陶酔的心境に入り得る。「音曲風体一心になる」といふ芸位が、かかる芸術美を生み出し得るのである。謡と、身体の動かし方とは、元来からいへば別々のはたらきである。その別々なはたらきを、一つに結びつけようとする注意が「節とかかりによりて、身の振舞を料簡すべし」である。これを究め究めて、究めつくした究極境が、「音曲風体一心になる位」である。かくなれば、身体の動きが謡となるのである。更にこれを他面から考へる時、微細な身体の動きによる物真似が、写実的にならないで、能楽のやうな幽玄な象徴的な芸にまで進歩し得た因由は、全く物真似を音曲の旋律的曲線美によつて統整し得た結果であると考へられる。世阿弥の言をかりれば、舞歌二曲の幽玄美で物真似を統合し得た結果である。そこに現出する、音曲風体一如融合の妙境こそ、能楽をして不朽の大芸術たらしめたものだと思ふのである。
真に強い能、真に幽玄なる能、それはかかる妙境から生れ、演者の百錬千鍛の苦心錬磨の結果の所産である。「命には終りがあるが、芸には終りはない」とは、実によく言つた名言だと思ふ。