〔口訳〕 演能に於て、強い演出と荒い演出、幽玄な演出と弱い演出とを、識別する事について考へてみるに、それは、大体眼に見える事だから、容易に知り分ける事が出来るかのやうであるが、実際は、真実にわきまへ知らないために、弱くなる為手や荒くなる為手が多いのである。
先づ一切の物真似に於て、偽る所があれば、荒くもなり弱くもなるものだと心得るが良い。この境目は、良い加減な工夫公案では、往々にしてまぎれてしまふものだ。十分にその心底を吟味しつくして、了悟自得しなければならない。先づ弱かるべき事を強く演じるといふのは、物真似に於て偽りがあるから、これ即ち荒いのである。強かるべき事を強くするのは、これ即ち強いのであつて、決して荒いのではない。若し、強かるべき事を幽玄にしようとして、物真似が似て居なければ、それは決して幽玄ではなくて、弱いものである。かやうなわけであるから、ただ、物真似にまかせて、その物に成り入つて、少しも偽りがなければ、荒くなつたり弱くなつたりする事は絶対に無い筈である。又、強かるべき理(程度)を過ぎて、無暗に強くやるのは、これは殊更荒いのであり、幽玄の風体よりも尚優しくしようとすると、度を過ぎて弱くなるのである。
この分け目(強きと荒き・幽玄と弱きの分け目)をよくよく考へて見るに、幽玄と強いといふことが、別に(物真似に真似られる物とは別箇に)あるものであるかの如くに心得てゐるものだから、迷ひが生ずるのである。所が、この幽玄と強きといふ二つは、真似る物その物の体にあるものである。例へば、人に於ては、女御・更衣・又は遊女・美女・美男、草木に於ては花の類の如き、かやうなものは、其のかたちが幽玄なものである。又、武士・荒夷・鬼・神、又草木では松・杉等、かやうなものは、強いものといふべきであらう。かやうな様々の物々を、十分に立派に真似得たならば、幽玄な物の物真似は幽玄に成り、強い物の物真似は自然に強くなるであらう。所が、この分け目を、演出に当つて配慮する事なく、ただ幽玄に演じようといふことばかり考へて、物真似のまね方がおろそかになると、第一物真似がその物に似なくなつてしまふ。その似ぬことを覚らないで、自分は幽玄に為るのだと思つてゐるのが、即ちこれ弱いのである。それで遊女や美男などの物真似を良く似せ得たならば、その芸は自づから幽玄になるであらう。演者はただ、「似せる」といふことばかりを念頭に置くべきである。又強い事物を良く似せ得たならば、それは自づから強い能となるであらう。
しかし、ここに心得るべき一条がある。それは能楽の道に於ては、残念ながら、見物席の賞美を得る事を根本に置いて芸をするたてまへのものであるから、その時代々々の世人の風儀好尚で、幽玄なものを賞玩する見物衆の前に於ては、強い方面をば、少々物真似から外れても、幽玄の方へ傾くやうに演ずるが良い。この演出の工夫に関して、能の作者としても亦心得てゐなければならない事がある。それは、謡曲の素材には、幽玄な人体のものをとるやうにし、その心・言葉に於ても、十分に優雅なものになるやうにと研究工夫して能を書かなければならない。そして、それを演出するに当つて偽がなければ(完全に似せ得るならば)、自づから幽玄なる為手であると見えるであらう。幽玄の理を知り究めたならば、自然と又、強い所をも知るであらう。それで、一切の物真似を十分に良く似せ得たならば、他人の目から見て、その芸には少しの危気もないものとなる。些の危気も無い芸は又、強き能といふべきである。
それで、極く僅かな言葉のひびきでも、靡く・臥す・かへる・寄るなどいふ言葉は、柔らかなひびきの語であるから、自然に幽玄な余情にも成るやうである。又、落つる・崩るる・破るる・転ぶなどいふ語は、強き響の語であるから、かやうな言葉に合はす振舞は強くなるであらう。かやうなわけであるから、「強き」・「幽玄」といふのは、別にあるものではない。それは、物真似の偽りなき所に存し、「弱き」「荒き」といふのは、物真似に外れた所より生ずるものと知るべきである。
以上のべた(言葉のひゞきと強き・幽玄との)あてがひよりして、作者に於ても、発端の句・一声・わか等に、その真似る所の人体の種類によつて、如何にも幽玄な余情や幽玄な風趣の出るやうな文句を要求する所へ、荒い言葉を書き入れたり、思の外にひねくつた梵語や漢音を入れなどしては、それは作者の僻事といふべきである。かやうな文句に従つて、その言葉のままに動作をしたならば、定めて幽玄な人体に不似合な荒荒しい所が生ずるであらう。但し、堪能上手な演者に於ては、その違ひ目(実際に表現すべき余情と、文句・詞の矛盾してゐる点)を十分に心得て、不思議な工夫をめぐらし、なだらかな様に演出するであらう。しかし、これは演者の功名といふべきものであつて、作者の僻事の罪は決して許さるべきものではない。又他面に、作者に於ては、上述のあてがひを十分に心得て謡曲を書いてゐても、もし演者が心なくしてまづく演ずるとなれば、それは所謂沙汰の限りの者といふべきであらう。これ等に関する注意は、大体以上のべたやうなものである。
又、能によつては、さして細かに言葉や儀理に拘らないで、大やうに演ずべき能もあるであらう。さやうな能は、謡も舞も直ぐに颯々と淀みなく謡ひ、振りなどをも、する〳〵となだらかに演ずべきである。かやうな能を細かに演ずるのは、これ又下手の所行である。かやうなことをしては、能の伎倆が下るものだと心得べきである。以上のべたやうな次第であるから、作能に際して、善き詞や余情を求めるといふのも、儀理や詰め所がなくてはならぬ能に於ての事である。直ぐなる能では、たとひ幽玄な人体に扮して硬い言葉を謡つても、音曲のかかりさへ確かであれば、それで差支は無いと思ふ。そして、これが能の本格的なものだと心得べきである。しかし、返す返すも心すべきは、以上述べて来たやうな条々の注意を究め尽して、然る後に、大様な演出をするといふのでなくては、能の庭訓を得たものとはいふことが出来ないといふことである。