〔評〕 問答条々は
別紙口伝と共に、花伝書の中でも最も面白く興趣の深々たる好篇である。
年来稽古条々や
物学条々を平素の軍事訓練にたとへると、問答条々はあたかも実戦の駆け引きに相当する。私はこれ等の章を読むと、観阿弥や世阿弥が如何にすぐれた軍師であるかを痛感させられ、彼等の率ゐてゐた大和猿楽、殊に観世座が、室町初頭の猿楽界に君臨したのも、もつともであると首肯させられるのである。
第一段は、演能の当日に於て、見所の空気を察知して、その日の能の吉凶を予知する事を中心として説かれてゐる。これは能の道に於て通達した上手が、第六感によつて知り得るものであつて、何人でも望み得られるものではないが、その大体を、親切に解剖的に、比較的初心者にもわかる程度に説明したのが此の一段である。しかも重要なことは、単に吉凶を察知するだけでなく、直ちにその情勢に対してとるべき処置が説かれてゐる点である。
能楽のやうな舞台芸術では、見物の注意を舞台へすつかり吸収してしまへない時には、その演出は必ず破綻を来す。その為に最も必要なことは、役者の芸の力量である。役者が下手では舞台は持ちきれるものではない。しかし、役者が如何に上手でも、舞台の外的条件に細心の顧慮が払はれてゐなくては、その芸は十分の真価が発揮出来ない。この段は、外的条件への注意と臨機の処置を巧妙に説いて居る。花鏡で説いた「時節感当」は、この段に深い関係を持つ。
夜間と昼間との舞台や見所の気分の相違を説いた条は面白い。今日のやうな照明装置もなく、篝火で演ずる能などには、殊にこの感が深いであらう。只今のやうな照明があつても、夜能と昼能には、どこかに気分の相違があるのだから。これ等の気分の相違を、陰気陽気の二つに綜合して、一般的原理として説いた秘義の一語は、あらゆる場合に、演者の力量一つで千変万化の妙用を生ぜしめるものである。考察が科学的な表現でないからといつて、これを幼稚視する者があつたら、その人は自ら自己の幼稚さを実証することにならう。
猿楽の演奏は、結局、貴人の御意に叶へるまでのものだといふ考は、相当に注意して見なくてはならない。時代の空気や貴人の愛顧如何が、一座の隆替に及ぼす勢力等を考へると、これは当時の猿楽者にとつては一の死活問題である。従つてこれ等の言葉を軽侮の眼を以てながめてはならないと思ふ。そればかりでなく、貴人は比較的高級な観賞眼を持つて、猿楽者を指導し、その芸を高級ならしめようとつとめた人々であつたのだから、その意に叶へる事は、能楽の幽玄化に於て相当な役割を演じたものである。今日の営利的なものが、通俗大衆的ならん事を欲して、芸術味の稀薄になることをも辞せないに比べれば、決して、猿楽者流が貴族の意を迎へたことを笑ふことは出来ない筈である。