〔評〕 四十四五歳より、能の演出の手だてが変るといふのは、今日の能を見、今日の名人の芸を見て居る我々には、やや不思議な感をいだかせる所である。が、そこに、世阿弥時代の猿楽と今日の猿楽との相異点を考へさせられるものがある。世阿弥や観阿弥の時代は、芸の巧みさと、肉体の美しさ、肉声の美しさとの両方が要求せられた時代であることは、この一文だけでも想像せられる。現代は、役者の容貌の美醜などといふものは、能楽道では問題とせられる事はない。声調の美しさの豊富なことは、難声に比べて、たしかに見物に喜ばれる所であるが、地声の美しさよりも、鍛へぬいた美しさの方が賞讃せられる時代である。観阿弥時代の見物人は、今日から見れば、やや低級な見物が、新派劇を見物して、役者の声や容貌をも問題にしてさわいでゐるといつたやうな程度ではなからうかと思はれる。しかし、役者としては、その見物にも応ずるだけの手段をとるべきであるから、かかる用心がのべられたものと思はれる。
良い脇の為手を選んで演じ、脇に花をもたせるやうにして演ずるといふ考へ方、これも前述の事情にもとづくものと思はれる。脇の為手は、この際は年盛りで容貌も声も美しいものであることが必要条件であつたらう。又今日のやうに、演出形式が型式化してゐないから、脇の為手に相当活躍させるといふ自由さもきかし得たと思はれる。
身をくだく能をしないといふことは、わざを中心とした能をしないやうにし、音曲中心の能か、又心の持味の能をやることをいつたものであらう。花鏡の批判の事の条に、「見より出で来る能」「聞より出で来る能」「心より出で来る能」の三つの味を説いてゐる。「身をくだく能」は、さしづめ「見より出で来る能」の方に含まるべきもので、四十五以後は、「聞より出で来る能」や「心より出で来る能」の世界に進むべきであるといふ意味と思はれる。