風姿花伝第四、神儀云
 申楽神代の初まり
 仏在所には
 日本国に於ては
 平の都にしては
 当代に於て

風姿花伝第五、奥儀云
 一 序・風姿花伝の謂れ
 二 和州・江州・田楽の風体
 三 一座建立の寿福・衆人の愛敬
 四 寿福増長に対する戒

風姿花伝第六、花修云
 一 能の本を書く事
 二 作者の思ひ分くべき事
 三 強き・幽玄・弱き・荒きの別
 四 能と為手の位との相応

花伝書別紙口伝
 一 花を知る事
 二 細かなる口伝
 三 物真似に似せぬ位
 四 能に十体を得べき事
 五 能によろづ用心を持つべき事
 六 秘する花を知る事
 七 因果の花を知る事
 八 能の善き悪き
 九 一代一人の相伝

 

 

 

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風姿花伝第一、年来稽古条々 四十四五

この頃よりの手に立て、大方変はるべし。仮令、天下に許され、能に得法したりとも、それに附ても、善き脇の為手を持べし。能は下がらねども、力無く、やう〳〵年闌ゆけば、身の花も、外目の花も失るなり。先勝れたらむ美男はしらず、よき程の人も、直面の申楽は、年寄りては見えぬ物なり。さるほどに、此一方は欠けたり。この頃よりは、さのみに、細かなる物真似をば為まじきなり。大方似合ひたる風体を、安々と骨を出して、脇の為手に花を持たせて、会釈の様に、少々と為べし。仮令脇の為手無からんにつけても、いよいよ細に身を砕く能をば為まじきなり。何としても外目花なし。若、この頃まで失せざらん花こそ、真の花にてはあるべけれ。其は、五十近くまで失せざらむ花を持たる為手ならば、四十以前に天下の名望を得つべし。仮令天下の許されを得たらん為手なりとも、さやうの上手は、殊に我身を知るべければ、猶々脇の為手を嗜み、さのみ身を砕きて、難の見ゆべき能をば為まじき也。かやうに我身を知る心、得たる人の心なるべし。

 

〔口訳〕 此の時代から、能のやり方は、大体変るべきである。たとひ天下の人々より名人と許され、芸能に於て悟得の境に入つて居ても、それにつけても、良い脇の為手を得なければならない。芸の伎倆は下つては居なくとも、段々年寄つて来るにつれて、自然と身の美しさも、見物人の感ずる花も、失せて来るのである。まづ、特別の美男子ならばいざ知らず、相当の容貌の為手でも、の能は、年が寄つては見るに堪へないものだ。それで、此の直面の能といふ方面は、なくなつてしまふのである。又、此の時代からは、あまり細かい物真似はやらないやうにすべきである。大体、自分に似合つた風体の能を、あまり骨を折らず安々と演じ、脇の為手に花をもたせて、自分はそのあしらひのやうに、控へ目控へ目にと芸をするがよい。たとひ適当な脇の為手が無くても、細かに身をくだいてやるやうな能は、いよいよやるべきでない。何といつても見物の目につく美しさなどはなくなつてゐるのだ。若し此の時代までも亡びない花があるならば、それこそ真の花であらう。五十近くの年までも亡びない花を持つて居るやうな為手ならば、それはきつと、四十以前に天下の名望を得るにちがひない。又たとひ天下世上から名人と許された為手でも、そのやうな上手は、人一倍我が身をよく知つて居る筈だから、猶々良い脇の為手を選んで演じ、そんなに細かく身を砕くやり方をして、却つて難の見えるやうな能はやらない筈である。かやうに、己が身を知るといふ心こそ、能に悟入し得た人の心といふべきであらう。

 

〔評〕 四十四五歳より、能の演出の手だてが変るといふのは、今日の能を見、今日の名人の芸を見て居る我々には、やや不思議な感をいだかせる所である。が、そこに、世阿弥時代の猿楽と今日の猿楽との相異点を考へさせられるものがある。世阿弥や観阿弥の時代は、芸の巧みさと、肉体の美しさ、肉声の美しさとの両方が要求せられた時代であることは、この一文だけでも想像せられる。現代は、役者の容貌の美醜などといふものは、能楽道では問題とせられる事はない。声調の美しさの豊富なことは、難声に比べて、たしかに見物に喜ばれる所であるが、地声の美しさよりも、鍛へぬいた美しさの方が賞讃せられる時代である。観阿弥時代の見物人は、今日から見れば、やや低級な見物が、新派劇を見物して、役者の声や容貌をも問題にしてさわいでゐるといつたやうな程度ではなからうかと思はれる。しかし、役者としては、その見物にも応ずるだけの手段をとるべきであるから、かかる用心がのべられたものと思はれる。

 良い脇の為手を選んで演じ、脇に花をもたせるやうにして演ずるといふ考へ方、これも前述の事情にもとづくものと思はれる。脇の為手は、この際は年盛りで容貌も声も美しいものであることが必要条件であつたらう。又今日のやうに、演出形式が型式化してゐないから、脇の為手に相当活躍させるといふ自由さもきかし得たと思はれる。

 身をくだく能をしないといふことは、を中心とした能をしないやうにし、音曲中心の能か、又心の持味の能をやることをいつたものであらう。花鏡の批判の事の条に、「見より出で来る能」「聞より出で来る能」「心より出で来る能」の三つの味を説いてゐる。「身をくだく能」は、さしづめ「見より出で来る能」の方に含まるべきもので、四十五以後は、「聞より出で来る能」や「心より出で来る能」の世界に進むべきであるといふ意味と思はれる。

 

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