〔評〕 此の段は、前の「
因果の花を知る事」を受けて、其の段に於ては、未だ解明せずして残した問題を、「珍らしき・珍らしからぬ」といふ立場から、極めて明快に説き去り、遥かに、この別紙口伝の
序段の「花とは、其の時を得て珍らしきが故に、もてあそぶなり」・「たゞ花は、見る人の心に珍しきが花なり」・「花と面白きと珍らしきと、これ三つは同じ心なり」などといふ断案に相応ぜしめて居るのである。
先づ、「因果の花を知る事、きはめ也。一切皆因果なり」として、すべてを因果の理法によつて解した前段をうけて、「抑々因果とて、善き悪しき時のあるも、公案をつくして見るに、ただ珍らしきと珍らしからぬの二つ也」と断定して、時の因果の善悪も、畢竟して見れば、結局珍らしさの問題に帰着すると断じたのは誠に面白い。そして次にこれを実例を以て例証し、更に進んで、「この道を究め終りて見れば花とて別には無きもの也」といふ結論へ導いたのは、そぞろ禅僧の機鋒を思はせる峻烈さがある。
花伝書七篇は、芸能の花を伝へんが為に書かれたものである。しかも、その最後に到つて、「花などといふものは別にあるものではない」と断じ去つて、それで涼しい顔をして居るのは、誠に人を喰つた態度の如くに一見思はれる。しかし、花が無いといふ事は、他面より見れば、すべてが花であるといふに等しい。ただ花を花たらしめるものは「奥儀を究めてよろづに珍らしき理を我と知る」ことである。「善悪不二・邪正一如」といふ経典の文句を引用したのは、本来より見れば善なるもの悪なるものは無いといふ事を述べんが為である。時に当つて用に足れば善となり、用に足らねば悪となる。それと同じく、芸能の花といふも、その芸能がその時と場合によつて、見物に珍らしく面白く感じられれば花となり、珍らしく面白い感をあたへ得なければ花とはならない。「珍らしく面白く感じる」といふ事は、言葉をかへていへば、その時に用足ることである。時と場所と人とによつて、其の見物の好尚も区々である。従つて、一つの風体を花なりとして定めては、所謂琴柱に膠するたぐひであつて、変化に応ずる妙味は欠けてしまふ。それでは花が花でなくなる。従つて、すべては花であつて、すべては又花ではない。ここが善悪不二邪正一如といふ境である。
花伝書の第一篇以来、我々は世阿弥に従つて、能芸の花をさぐり求めて、多くの山河を旅して来たわけである。そして探り求めた結果は、遂に簡単な悟りにと落ちついて来た。これ所謂「到リ得テ帰リ来レバ無シ二別事一、廬山ハ煙雨浙江ハ潮」である。が、等しく廬山煙雨浙江潮も、未だ到らずして千万心をなやました際のそれと、一度び到得し帰来して眺め渡したそれとは、その間に大きな気持の相違がある筈である。