風姿花伝第四、神儀云
 申楽神代の初まり
 仏在所には
 日本国に於ては
 平の都にしては
 当代に於て

風姿花伝第五、奥儀云
 一 序・風姿花伝の謂れ
 二 和州・江州・田楽の風体 📍
 三 一座建立の寿福・衆人の愛敬
 四 寿福増長に対する戒

風姿花伝第六、花修云
 一 能の本を書く事
 二 作者の思ひ分くべき事
 三 強き・幽玄・弱き・荒きの別
 四 能と為手の位との相応

花伝書別紙口伝
 一 花を知る事
 二 細かなる口伝
 三 物真似に似せぬ位
 四 能に十体を得べき事
 五 能によろづ用心を持つべき事
 六 秘する花を知る事
 七 因果の花を知る事
 八 能の善き悪き
 九 一代一人の相伝

 

 

 

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風姿花伝第五、奥儀云 二 和州・江州・田楽の風体

凡そ此の道、和州江州に於いて、風体変われり。江州には、幽玄の境を取り立てゝ、物真似を次にして、風情を本とす。和州には、先物真似を取り立てゝ、物数を尽て、然も幽玄の風体ならんとなり。然ども、真実の上手は、いづれの風体なりとも、漏れたる所あるまじき也。一向きの風体斗を為ん者は、まこと得ぬ人のわざなるべし。

されば、和州の風体、物まね、儀理を本として、或ひは長のある粧ひ、或ひは怒れる振る舞い、かくの如くの物数を、得たる所と、人も心得、嗜みも是専なれども、亡父の名を得し盛り、静が舞の能、嵯峨の大念仏の女物狂いの物まね、殊に〳〵得たりし風体なれば、天下の褒美、名望を得し事、世もて隠れなし、是幽玄無上の風体なり。

又、田楽の風体、殊に、各別の事にて、見所も、申楽の風体には批判にも及ばぬと、皆々思馴れたれども、近代に、この道の聖とも聞こえし本座の一忠、殊に〳〵物数を尽くしける中にも、鬼神の物まね、怒れる風体、漏れたる風体無かりけるとこそ承し也。然ば、亡父は、常々、一忠が事を、我風体の師なりと、正しく申し也。

されば、たゞ人毎に、或は諍識、或は得ぬ故に、一向の風体ばかりを得て、十体に渉る所を知らで、他所の風体を嫌う也。これは嫌うには非ず、たゞ叶わぬ諍識也。されば叶わぬ故に、一体を身に得たる程の名望を、一旦は得たれども、久しき花なければ、天下に許されず。堪能にて、天下の許されを得ん程の者は、いづれの風体を為るとも、面白かるべし。風体形木は面各々なれども、面白き所は、何れにも渉るべし。この面白しと見るは花なるべし。是、和州、江州、又は田楽の能にも、漏れぬ所也。されば、漏れぬ所を持ちたる為手ならでは、天下の許されを得ん事あるべからず。

又云、悉く物数を究めずとも、仮令、十分に七八分究めたらん上手の、其の中に、殊に得たる風体を、我もんてい門弟?の形木に為究めたらむが、しかも工夫あらば、これ又天下の名望を得つべし。さりながら、実には十分に足らぬ所あらば、都鄙上下に於いて、見所の褒貶の沙汰あるべし。

凡、能の名望を得る事、品々多し、上手は目利かずの心に、合ひ適ふ事難し。下手は目利きの眼に合ふ事なし。下手にて目利きの眼に適はぬは、不審あるべからず。上手の目利かずの心に合はぬ事、是は目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、又目利かずの眼にも、面白しと見るやうに能を為べし。此工夫と、達者とを、究めたらん為手をば、花を究めたるとや申べき。されば、此位に到らん為手をば、如何に年寄りたるとも、若き花に劣る事あるべからず。されば、この位を得たらん上手こそ、天下にも許され、又、遠国、田舎の人までも、普く面白しとは見るべけれ。この工夫を得たらん為手は、和州へも、江州へも、若は田楽の風体までも、人の好み、望みによりて、いづれにも渉る上手なるべし。この嗜みの本意を顕さんがため、風姿花伝を作する也。

かやうに申せばとて、我風体の形木の疎かならむは、殊に〳〵能の命あるべからず。これ弱き為手なるべし。我風体の形木を究めてこそ、普き風体をも知たるにてはあるべけれ。普き風体を心にかけんとて、我形木に入ざらむ為手は、わが風体を知らぬのみならず、他所の風体をも、確かには、況して知るまじき也。されば、能弱くて、久しく花はあるべからず。久しく花の無からんは、何れの風体をも、知らぬに同じかるべし。然れば花伝の花の段に、「物数を尽くし、工夫を究めて後、花の失せぬ所をば知るべし」といへり。

 

〔口訳〕 斯道の芸風は、大和と近江とで大分と相違がある。近江猿楽では、先づ優美な趣を第一義とし、物真似といふことを第二次的にして、風姿風情の美しさといふものを根本とする。大和猿楽に於ては、先づ物真似を第一義とし、様々の物真似を究め尽して、しかも優美の風体を得ようと努めるのである。しかし、真実の上手は、この何れの風体をも漏らす所なく備へて居るのであつて、一方的な風体ばかりしか演じないといふのは、まだ真に得たる名人とは申し難いのである。

 世人は、大和猿楽の風体は、物真似や儀理を基本として、或は長のある風姿や、或は怒れる振舞などと、様様の物数をつくす所が、その得意とする所だと思ひ、又実際に、大和猿楽者の工夫錬磨もこれを専らとするものではあるが、亡父観阿が盛名を博した頃、「静が舞の能」や「嵯峨大念仏の女物狂の能」など、殊に得意とした風体であつたので、天下の絶讃を博し名望を得たことは、誰知らぬ者もない事実である。これ即ち幽玄無上の風体であるのである。

 又、田楽の風体は、殊に別種のものであつて、見物人も、猿楽の風体と同一に批判などは出来ないものだと、誰も誰も思ひ慣れてゐるが、近代に、田楽道の聖とも評判せられた本座の一忠などは、殊に物真似の数々を究めて居た中にも、鬼神の物真似、怒れる姿など、一つとして漏れた所は無かつたと聞いて居る。それで、亡父観阿は、常々、一忠のことを、自分の風体の師匠であると正しく言つて居られた。

 普通多くの者は、或はつまらぬ諍慢心から、或は自分に出来ない為から、ただ一方面の風体ばかりを物にして、普く諸体に亙つて習ひ究める事を知らず、他の風体を嫌ふものが多い。しかし、これは「嫌ふ」とはいへないもので、ただ自分がやり得ないからの諍識に過ぎない。多くの風体を学び得ないものだから、一体を物にしたといふ称讃を一旦は博するが、花は久しくつづかず、名手として天下に許されるといふ事がない。これと反対に、堪能者であつて、天下万人に認められるほどの名人は、如何なる風体を演じても、面白いに相違ない。風体や演伎の型は、それぞれ(田楽・大和猿楽・近江申楽等)に別様ではあるが、面白いといふ点に於ては、何れも面白いのである。そして、この面白いと見る所が芸能の「花」なのである。この面白いといふ花は、大和猿楽にも近江申楽にも田楽の能にも、何れにも漏れることなく存するものである。この漏れる所の無い「花」を持つた為手でなければ、到底天下の名望を得るといふことは出来ない。

 又曰く、物数の全部を悉く究め尽さなくても、たとへば、十中の七・八まで究めて居るといふ上手が、その究めた物数の中で、殊に得意とするところの風体を自分のの誤写であらうか)の型と定め、且つそれに十分の工夫をこらして演じたならば、これ亦天下の名望を得るであらう。しかしながら、真実のところ、物数を十分に尽し究めて居ない場合には、或は都会と地方とにより、或は貴賤の別によつて、見物人から喝采を得る時と得ない時とがあることを免れない。

 一体、能で名望を博するといふ事にも、種々の場合がある。上手は目の利かない人には賞玩され難いものだし、下手は目の利く人に認められることは出来ない。下手が眼の利く人に認められないといふのは、これは当然のことで、何の不思議もないが、上手が目利かずに認められないといふことは、これは見る人の眼識が低い為によるのである。しかし、真の上手で、工夫をつくす為手であるなら、又、眼の利かない者の目にも面白いと感ずるやうに、能をするに相違ない。この工夫と、芸の錬磨とを、兼ね備へ究め尽くした為手をば、花を究めた為手といふべきであらう。それで、この位にまで到り得た為手は、如何に老年になつても、若為手の花に負けるなどといふことは絶対にない。従つて此の芸位を獲得した上手は、天下に名人として許され、遠国田舎の比較的目の低い見物までも、あまねく面白い芸よと賞玩するであらう。この工夫を自得した為手は、見物人の好みや望みに応じて、大和風にも、近江風にも、又田楽の風体にも、何れにも渉る上手といへるであらう。この嗜み(錬磨と工夫公案をつくすこと)の本旨をあらはさんが為に、この風姿花伝書を草したのである。

 以上、芸能の各風体に亙るべき事を説いたが、しかしここに注意すべき肝要な点は、自分の風体の型(大和風ならば大和風の型)の研究錬磨が疎かであつては、それこそ全く、能の生命などといふものはあり得ないといふ事である。自分の風体の型をおろそかにする者は、「弱き為手」といふべきである。自分の風体の型を十分に究めてこそ、その風体以外の普き風体をも認知した為手といひ得るのである。広く普く各種の風体に亙らうとして、その為に自分の風体の型を我物とするまで究めない者なら、その者は自分の風体を知らないばかりでなく、他所の風体をも確に知るなどといふことは、勿論出来ないわけである。そんな調子では、能は弱くて、久しい花を保つなどといふことは不可能である。久しく花が続かないのなら、それは何れの風体をも知らない者と全く同じだといへる。それで、花伝書の問答条々の花の段に於て、「物数をつくし、工夫を究めて後、花の失せぬ所を知るべし」と述べたのである。

 

〔評〕 以上説く所の要点は、先づ、「真実の上手は、何れの風体なりとも、漏れたる処あるまじき也」といふ条に始まる。そしてこの強い信条は、観阿弥や田楽の一忠が、名人として許された事実を根拠として打ち立てられて居るものであつて、単なる思索の所産でない所に、強く人に迫る力のあることを感じる。

 次に、普通の者が、あらゆる風体を漏れる事なく持つ事が出来ない理由に言及して、自己の風体を尊び他を嫌ふといふ狭小な根性があることをのべる。しかも、その嫌ふといふ事は、更に穿つて見ると、自己の力の及ばぬといふ点から生じる諍識に過ぎないものだと喝破した。実に痛烈な批判である。

 第三に、何れの風体をも漏れる所なく持つことの意義効果について説く。即ち「風体形木はめんめん各々なれども、面白き所は何れにも亙るべし。この面白しと見るは花なるべし」。「漏れぬ所を持ちたる為手ならでは、天下の許されを得んことあるべからず」とのべて、それは結局を持ち、これを持続するといふ点に、重大な意義の存するものである事を説いてゐる。

 第四には、何故に普ねく十体に亙らねばならぬか、といふ点を、都鄙上下何れの所に於ても褒美せられ、天下の名望を得るが為であると説く。目利きの目にも目利かずの眼にも、何れにも面白く見せる為には、演出する曲目や風体や演出方法に於て、十分の工夫考慮を必要とするが、その前に、如何なる風体をも演じ得るといふ実際的修行が行はれてゐなくては、相手に応じ場所に応じて、最適当のものを取り出す事が不可能となるが故である。普ねく十体に亙る修行は、商売でいへば各種各様の商品を豊富に仕入れておくことである。工夫公案は、顧客の地位身分嗜好を察知して、その最も喜ばれさうな品物を提供するでありである。「十中の八九分まで究めて、その中最も得意なものを、自分の風体の形木とする」といふのでは、まだ商品として多少の不足があり、不満を感じて買はずに帰るといふ顧客もあり得るわけである。風姿花伝書は、見方によれば、猿楽といふデパアトの経営方針のを説いたものとも見られるのである。

 最後に、各種の風体に亙るといふ事が、ややもすると、自己自身の風体の形木を疎かにするといふ弊に堕し易い事を指摘して、これに関して手痛い戒告を加へて居る条は、誠に至れり尽せりの親切さといふべきである。自分の風体の型を究めなくては、それと他所の風体との相違点を正確緻密に認識する事は不可能であり、従つて他所の風体をも完全にことは出来ない。「普き風体を心にかけんとて、我が形木に入らざらむ為手は、我が風体を知らぬのみならず、他所の風体をも確かにはまして知るまじきなり」といふ訓戒は、突くべき急所を実にあざやかに突いたものといふべきであらう。

 今日の能楽は、各流それぞれに型が規定せられて居り、その型を破つて他の流儀の型を採り入れる事は、全くいけない事だと定められて居る。その点で、世阿弥の理想とは全くかけはなれた態度であるといふべきである。創業時代の自由な潑溂とした向上の意気に燃えた時代と、守成保守、先人の規矩を寸毫も外すまいと努力する時代との相違である。その何れにも理由が存し美点がある。従つて、現在の能に於て、世阿弥の理想を行ふといふことは、特別な名人でない限りは許されないであらう。しかし、現在の能のやうに、型より入つて、精神に進むといふ行き方には、又非常に貴重なものがあるのであつて、この貴重なものは、江戸時代以後三百余年の能楽師の努力の結晶であると思ふ。そしてこの貴重なるものこそ、真に能を究めた者にのみ、以心伝心で伝へられる至宝である。この至宝を完全に伝へうけた者には、世阿弥の理想とする世界も亦許されるであらう。

 

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