〔評〕 物狂についてのべて居る所は、第一に、物狂は種類も多く、面白づくの芸であるといふ点である。種類よりいへば、男物狂と女物狂との両方があり、又丹後物狂の古作の如く夫婦共に出でての物狂もあつたやうであるが、現在四番目ものとして、最も人々の嗜好する所は、所謂物思ひ故の女物狂であらう。憑物の物狂は現在の曲にも相当に見られるが、所謂狂女物ほどの人気はないやうである。物狂の本質については、野上豊一郎氏の名著「能」の中に好論文がある。女物狂で例をとれば、幽玄第一の第三番目物に比して、見物の感興と同情をひき、芸の花の咲かせやすいやうに作曲せられて居る所が、見物に喜ばれる所であらうと思ふ。
第二には物狂能を二種類に分つて、憑き物によつて狂ふ能と、物思故に狂ふ能の二つとし、第一の方を「憑物の体を学べば、易く便あるべし」といひ、次のを、重大視して、「物思ふ気色を本意にあて、狂ふ所を花にあてる」といふ公案を提示して居る所は注意すべきで、物狂演出の骨髄を説いた所と見るべきだと思ふ。
第三に物狂の扮装の特殊的な用意として「物狂にことよせて、時によつて、何とも花やかにいでたつべし。時の花をかざしにすべし」とのべて居る。これは物狂ひの心理を、うまく形の上にあらはしたものであり、且つ花めかす用意のためにもなる所、古人の苦心を味はふべきであらう。
第四に、憑き者と憑かるる者との調和的なるべき事に言及して、不調和な曲は、結局演じないのが秘事であると断じて居る。この事は、花伝第六花修にものべられて居るが、能作上にも実演上にも、其の見識の高さを見るべきであらう。
最後に直面の物狂について、その最も困難なものである事を説いてゐる所、実にもとうなづき得る。只今でも高野物狂の如き、中々に上手に見物を感ぜしめるやうには演じ難いやうに見た。世阿弥の論法を以てすれば、かやうなる能は、特別の事情や自信がない限りは、避けるべき曲なのであらう。
物狂の興味は、興奮のあまり常識から一歩踏み出してゐる点にある。そこに異常な生気と新鮮さがあり、見物への魅力があると思ふ。ここに、女物狂が物狂中の最も面白いものとせらるる理由がひそんでゐるやうである。