風姿花伝第四、神儀云
 申楽神代の初まり
 仏在所には
 日本国に於ては
 平の都にしては
 当代に於て

風姿花伝第五、奥儀云
 一 序・風姿花伝の謂れ
 二 和州・江州・田楽の風体
 三 一座建立の寿福・衆人の愛敬
 四 寿福増長に対する戒

風姿花伝第六、花修云
 一 能の本を書く事
 二 作者の思ひ分くべき事
 三 強き・幽玄・弱き・荒きの別
 四 能と為手の位との相応

花伝書別紙口伝
 一 花を知る事
 二 細かなる口伝
 三 物真似に似せぬ位
 四 能に十体を得べき事
 五 能によろづ用心を持つべき事
 六 秘する花を知る事
 七 因果の花を知る事
 八 能の善き悪き
 九 一代一人の相伝

 

 

 

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風姿花伝第三、問答条々 四 立合勝負の不審

問。此勝負に於て、是に大なる不審あり。はや劫入たる為手の、しかも名人なるに、只今の若為手の、立ち合ひに勝つ事あり。これ不審なり。

答。これこそ先に申つる、三十以前の時分の花なれ。古き為手は、はや花失せて、古様なる時分に、珍しき花にて勝つ事あり。真実の目利きは、見分くべし。さあらば、目利き、目利かずの、批判の勝負になるべき歟。さりながら様あり、五十以来まで、花の失せざらん程の為手は、如何なる若き花なりとも、勝事は有るまじ。たゞこれ、よきほどの上手の、花の失せたる故に、負事あり。いかなる名木なりとも、花の咲かぬ時の木をや見ん、犬桜の一重なりとも、初花色々と咲けるをや見ん、かやうの譬ひを思ふ時は、一旦の花なりとも、立合に勝は理なり。

されば、肝要、此道はたゞ花が能の命なるを、花の失するをも知らず、本の名望ばかりを憑む事、古為手の、返々誤り也。物数をば似せたりとも、花の有る様を知らざらんは、花咲かぬ時の草木を集めて見んが如し。万木千草に於いて、花の色は皆々異なれども、面白しと見る心は同じ花なり。物数は少なくとも、一向の花を取り究めたらん為手は、一体の名望は久しかるべし。

されば、主の心には、随分花ありと思へ共、人の目に見ゆる公案無からんは、田舎の花、藪梅などの、徒に咲き匂わんが如し、又、同上手なりとも、その中にて重々あるべし。たとひ、随分究めたる上手名人なりとも、この花の公案なからん為手は、上手にては通るとも、花は後までは有るまじき也。公案を究めたらん上手は、たとひ能は下がるとも、花は残るべし。花だに残らば、面白さは一期あるべし。されば、真の花の残りたる為手には、いかなる若き為手なりとも、勝つ事はあるまじきなり。

 

〔口訳〕 問。立合勝負の勝ち負けについて、一つ大きい不審な事があります。それは、既に年劫を積んだ為手で、しかも名人である為手に、まだ若輩の為手が、立合勝負に於て勝を得る事があることです。そのわけがどうも不思議ですが、どうしたわけでありませうか。

 答。これこそ、前に述べた「三十歳以前の」による勝利である。老いた為手が、もはや見物の眼を惹きつけるも失せ、古風なものになつてゆく時分に、若い為手が、珍らしさといふ花で以て勝つ事があるものである。しかし、真実に眼の利く鑑賞者は、何れがすぐれてゐるかを、十分に見分けて、一時の珍らしい花などに眩惑される筈はないだらう。かうなると、結局、鑑賞者の目が利いてゐるか、居ないかといふ事の優劣の論になつて来るかと思ふ。しかしながら、ここに仔細がある。それは五十以後までも芸の花の失せないほどの為手であれば、如何に若さの花のすぐれた為手でも、これに打ち勝つといふ事は無いであらう。若い花の為手に負けるといふのは、ただそれは、普通の上手といふ程度の為手が、自分の花の失せてしまつて居る為に、負けるのである。譬へを以ていへば、如何なる名木といつても、花の咲いて居ない時の木を、賞翫する者があらうか。たとひ犬桜の一重の花でも、初花のいろいろ美しく咲いて居る方を誰でも賞翫するに相違あるまい。かやうな譬へを思つて見れば、たとひ一時的なであつても、立合に勝つといふことのあるのは理りである。

 前に述べたやうな訳だから、結局、此の能楽の道に於ては、であるのに、その命ともいふべき大切な花が失せて居る事に気附かず、以前の名望ばかりを憑んで居るといふのは、古い為手の重大な誤りである。たとひ、能の物数を巧みに似せて物真似がうまくとも、花といふものが如何なる点にあるものかといふ事を自覚しない為手の芸は、丁度花の咲かない折の草木を集めて見るやうなものである。万木千草に於て、花の色は皆それぞれに異るものだが、面白い美しいと感ずるのは、等しくその花がさいてゐる点にあるのだ。たとひ演じ得る物真似の数に於ては少くとも、一方面の花を究め尽した為手ならば、その一体の芸についての世の名望は久しくつづくであらう。

 かやうな次第であるから、為手自身の心持では、自分の芸には随分に花があると思つて居ても、その花が見物の目に見える花となつて咲くには、如何にすべきものかといふ工夫公案がなくては、田舎の花や藪梅などが、徒らに咲き匂ふやうなもので、誰もこれを美しい花とは賞翫しない。又、同じ上手といつても、又その間には段階があるものだ。たとひ芸に於ては随分に究め尽した上手名人でも、このといふものについて工夫公案することを欠いては、上手な人だとしては世間に通つても、が後まで凋落せずにつづく事はあり得ないだらう。花に関する工夫公案を究めた上手ならば、たとひ老いて伎芸は下つても、花は生涯残るであらう。花さへ残るならば、その人の芸の面白さの魅力は生涯あるに相違ない。だから真の花が残つて居る為手に対しては、如何に若く時分の花の匂はしい為手でも、勝つ事は不可能だと思ふ。

 

〔評〕 「花が能の命」といふ一語がこの段の眼目である。その例は前半に先づ露骨に例証せられて居る。劫の入つたしかも名人とまで許された為手が、駆け出しホヤ〳〵の若為手に、立合勝負で後れを取るなどは、全く花の問題に心をひそめ工夫をこらさぬ所からの蹉跌である。真の花に敗れるならばとにかく、一時的な時分の花、珍しい花などで敗れをとるなどは、上手とも言はれるものには堪へられない無念ではあるまいか。勿論、眼識ある批評家は、勝を得た理由が一時の花にあつて、真の芸の花でないことは看破するであらうけれども、盲千人眼開一人の世の中では、批判の高下などは一般的には通用しない。ここに舞台芸術家の悩みもあり、又工夫の必要も生れるわけである。

 しかし、これは、世阿弥に言はすれば「よき程の上手」であり、花の失せたことに気づかぬ程度の為手なのである。五十以後まで花の失せない為手ならば、如何なる若い花でも勝てつこは無いといふ。世阿弥がこの鉄案を下す際に、彼の眼裏に彷彿と去来したものは、亡父観阿の面影であつたらう。

 どんな名木でも花の無い際の木を、誰が賞翫するものか、たとひ、犬桜の一重咲きでも、花さへ咲けば人が見るではないか。この譬へも痛切、骨をさす感がある。本の名望を憑むほど、他所目に気の毒に映ずるものはない。

 次の問題は「花の公案」に移る。「花のあるやうを知る」ことであり、「人の目に見ゆる公案をつくす」ことである。ここでははつきりと、伎芸と公案とを区別して居る。後に「」といふ語を提出して来るが、その「」の問題に進めて居る。そして、この「花の公案」だに透過するならば、たとひ伎芸はよし少々落ちても、花は決して散らないし、花さへ残るならば、見物の心を惹く面白さは生涯失せないだらう、さすれば、如何に若い花でも、決してこれに後れを取る事はないといふ。かく攻めたてて来る時、何人も「花の公案」が如何に重大なものであるかを感ぜざるを得ない。しかし世阿弥は満を持して放たない。その解答は、別紙口伝にまで持ち越されてゐる。不親切なやうで親切を極めたものである。先づ考へしめる、先づ苦しませる、そして機の熟するのを待つて、以心伝心、電光石火の間に大悟徹了せしめる行き方の妙味はここにある。

 

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