〔評〕 「花が能の命」といふ一語がこの段の眼目である。その例は前半に先づ露骨に例証せられて居る。劫の入つたしかも名人とまで許された為手が、駆け出しホヤ〳〵の若為手に、立合勝負で後れを取るなどは、全く花の問題に心をひそめ工夫をこらさぬ所からの蹉跌である。真の花に敗れるならばとにかく、一時的な時分の花、珍しい花などで敗れをとるなどは、上手とも言はれるものには堪へられない無念ではあるまいか。勿論、眼識ある批評家は、勝を得た理由が一時の花にあつて、真の芸の花でないことは看破するであらうけれども、盲千人眼開一人の世の中では、批判の高下などは一般的には通用しない。ここに舞台芸術家の悩みもあり、又工夫の必要も生れるわけである。
しかし、これは、世阿弥に言はすれば「よき程の上手」であり、花の失せたことに気づかぬ程度の為手なのである。五十以後まで花の失せない為手ならば、如何なる若い花でも勝てつこは無いといふ。世阿弥がこの鉄案を下す際に、彼の眼裏に彷彿と去来したものは、亡父観阿の面影であつたらう。
どんな名木でも花の無い際の木を、誰が賞翫するものか、たとひ、犬桜の一重咲きでも、花さへ咲けば人が見るではないか。この譬へも痛切、骨をさす感がある。本の名望を憑むほど、他所目に気の毒に映ずるものはない。
次の問題は「花の公案」に移る。「花のあるやうを知る」ことであり、「人の目に見ゆる公案をつくす」ことである。ここでははつきりと、伎芸と公案とを区別して居る。後に「種はわざ、花は心」といふ語を提出して来るが、その「花は心」の問題に進めて居る。そして、この「花の公案」だに透過するならば、たとひ伎芸はよし少々落ちても、花は決して散らないし、花さへ残るならば、見物の心を惹く面白さは生涯失せないだらう、さすれば、如何に若い花でも、決してこれに後れを取る事はないといふ。かく攻めたてて来る時、何人も「花の公案」が如何に重大なものであるかを感ぜざるを得ない。しかし世阿弥は満を持して放たない。その解答は、別紙口伝にまで持ち越されてゐる。不親切なやうで親切を極めたものである。先づ考へしめる、先づ苦しませる、そして機の熟するのを待つて、以心伝心、電光石火の間に大悟徹了せしめる行き方の妙味はここにある。