花鏡といふ秘伝書が世阿弥によつて作られて居たといふことに就ては、吉田東伍博士が十六部集序引の中や、禅竹集の歌舞髄脳記の解題の中に於て、逸早く考へて居られたのであるが、それが、十六部集中に覚習条々といふ名の下に収められてゐるものに相当するものであるといふ事については、雑誌文学昭和九年二月号に於て、齋藤香村氏が研究を発表せられるまでは不明であつたのである。即ち十六部集中の覚習条々(これは吉田博士の命名である)は、花鏡の中の、最初の三条(一調二機三声・動十分心動七分身・強身動宥足踏強足踏宥身動の三条)が欠けたものであることが、齋藤氏によつて報告せられたのである。次で、川瀬一馬氏は安田文庫の収蔵に帰した齋藤本花鏡の全文を雑誌椎園に発表し、吉田博士校訂十六部集本との異同を校合註記し、且つ、花鏡全体に関する研究をも発表せられ、これ等は安田文庫より発行せられた花鏡といふ小冊子の中に全部揖録せられた。かくて、花鏡の完き姿は吾人の前に提示せられたのである。尚、最近田中允氏の入手せられた華伝書と題する写本の中に、この花鏡の殆ど全部(最初の二ケ条だけを欠いてゐる)が混入して綴ぢられて居り、これによつて、目下は三通りの花鏡の本文が我々に示されるに到つたのである。
花鏡の成立に関しては、完本花鏡の奥書に、応永卅一年六月の奥書がある事によつて、世阿弥六十二歳の時には完成して居た事が知り得られるが、その内容の条々は、奥書に「此花鏡一巻、世阿私に四十有余より老後ニ至まで、時々浮ム所ノ芸得、題目六ケ条、事書十二ケ条、連続為レ書、芸跡トシテ残所也」とある記事よりして、世阿弥の四十歳以後自得した所のものであり、且つ比較的に長い期間に亙つて、漸次に整備せられたものである事が知られる。このことは又、観世家に伝へられてゐる「花習内抜書・序破急事」といふ伝書の奥書によつても証し得る。この伝書は、花鏡の中の「序破急事」と、大体一致するものであつて、字句の異同がある程度の差であるが、その奥書に、
抜書一ケ条分 已上
此本書花習内題目六ケ条・事書八ケ条也。此序破急段、事書内一ケ条ナリ。外見不レ可レ有、秘伝々々。
応永廿五年二月十七日
と記されてゐる。花鏡の内容は題目六ケ条・事書十二ケ条であることは、前に記した奥書で知られるが、花鏡と花習との相違は、事書の部に於て四ケ条だけ花鏡の方が多いのである。この点より考へて、花鏡は応永二十五年の頃には、既に花習の体裁(題目六ケ条・事書八ケ条)にまでまとめられ、且つその名が花習と名付けられてゐたものである事を知るのである。而して、これが「花鏡」といふ名を以て呼ばれてゐるのは、応永二十八年七月の奥書を有する二曲三体絵図の中に、
花鏡云、「先其物能成、後其態能似」是也。忘るべからず。
花鏡云、「身強動足宥踏、足強踏身宥動」と。身動足踏の生曲の出所なり。
とあつて、花鏡云と記されてゐる事よりして、応永二十八年には此の名を以て呼ばれてゐた事が知り得られる。但し、この応永二十八年に既に内容に於て、事書十二ケ条にまでまとめ終られてゐたか否かは、尚たしかに断言し得る資料はない。名称が改められてゐる点よりして、現存花鏡の体裁通りのものが出来上つて居たであらうと想像する事も可能であるが、奥書に応永三十一年とある点よりして、最後的完成は応永三十一年であると考へる事も出来るからである。内容は、奥書に「時々浮む所の芸得、題目六ケ条事書十二ケ条、連続書となし、芸跡として残す所」とある如く、適宜にまとめたものと思はれて、花伝書ほどの体系的な組織は具へて居ない。而してこの花鏡は、世阿弥が嫡男元雅に相伝した秘書であつた事は、観世家蔵の「四季祝言」と称する書の末尾に朱墨を以て
花鏡ハ元雅十郎相伝、三道ハ元能七郎愚身相伝、此両状二札トモ有マジキ由申サレシヲ……。
と記されてゐる記事によつて、明かになつたのである。
次にあげる本文は、吉田博士の校註本を本文とし、川瀬一馬氏によつて覆刻せられた安田本と田中允氏蔵本とによつて、相違する点を考異の項に記入することとした。